「やまゆり園事件」を振り返って

昨夜の0:00からNHK時論公論の中で障害者の意思決定支援というものがあると知った。私の認識では意思決定に関わるサポートなら知っているのだが、どうやら私が思うものではなく、複数の介護事業所を持つ場合の本人を入れた担当者会、あるいはカンファレス会議のような形での本人を含めての専門家による会議らしい。

この意思決定支援というのは、5年前の7月26日に起きた相模原障害者施設やまゆり園殺傷事件での植松聖が言った「意思疎通が出来ない人間は人間ではない」というのが背景にあるらしいのだ。事件を二度と起こさないためだそうだ。

一件頷きやすい、この論理展開も深く考えると、やはり矛盾が出てくる。生涯によっては自己の意思決定を表に出しにくい方もいるというのは解る。しかし、そういう障害を持つ人でも自己表現や意思決定の表現は必ずある。

本人がいるとしても、専門家と名乗る人たちの中で決められる意思は誘導されたものという恐れしかない。

津久井やまゆり園は、同じ敷地に建物を一新して再開したという。なぜ今だに施設なのか?

障害者が一生安住して暮らしていく場所だという。本当にそうであろうか?

仮に意思表示が困難な人がいたとしよう。いや過程の話ならだれでもできるであろう。今の私が言語障害かきつくなって、意思表示が難しくなったとしよう。(現実に現在の私でも知らない土地で、全く関わりのない事業所の介護を受ければ、介護を提供する側が解ろうとしない立ち位置であれば、あるほど意思表示が出来ないと判断されるだろう。)そう、意思表示がある・無し、あるいは出来る・出来ないは残念ながら障害者の場合になると自分以外の者が決めるという悪い福祉感がある。

例えば、スーパーや大型電気店、公共交通機関など車イスのこちら側が訪ねても、介護者に答えるという行動である。

意思表示を相手に託す場合、重厚な人間関係が必要になってくる。いくら知識が豊富な専門家でも解ったふりをするのでは意思決定でも何でもない。

やまゆり園殺傷事件の発端のひとつは施設介護職員の虐待にあるのならば、もはや施設=ユートピアという幻想はやめて。施設解体論に何故ならないのか?一昔前の山奥に施設があるというのは、地域社会からの排除だと思います。

あの「やまゆり園」を退園されて、地域で介護制度を利用して一人暮らし(自立生活)をされている元入所者がいらっしゃいます。

これが答えだと思うのですが・・・。

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