ちょうど1年程前、私は展覧会の準備のために大阪府茨木市中穂積にある浮田要三旧宅をお訪ねしました。
その折に、タイムカプセルのように開けられたのが、2階の物置部屋に据えられた本棚の扉だったのです(写真)。私の眼の前に現れたのは、児童詩誌『きりん』を知る人ならば、一見して胸がときめくような本ばかりでした。
この浮田さんの本棚に向き合った瞬間、私が感じたのは「自分は浮田さんが生前最も大切にしまい込まれた部分に直に触れたのだ」という、緊張感を含んだ悦びでした。
この本棚は、浮田綾子さん・小﨑唯さんのご厚意により、「浮田要三と『きりん』の世界」展にそのまま移され、第3展示室に展示することができました。
展覧会の会期も終りに近づいた頃でした。唯さんから私に、とても大切なお申し出がありました。それが、この展覧会が終わったあと、父の本棚に収められていた資料類をいつでも閲覧できるような資料室が作りたい、というご家族としての願いだったのです。
そこで私たちは、長野県小諸市にある法人事務所の空スペースを活かして、唯さんの希望される資料室が開設できないか、模索を始めました。
会期終了後、事務所奥にある8畳間に、壁面と本棚を整えて、美術館から運んだ資料類を並べてみたのが上の写真です。それまで活用されることのなかったガラスケースと壁面がまるで生命を吹きかえしたかのようによみがえりました。
現在、私は学芸員資格取得に向けて勉強しています。講義を聴いたり、教科書を読んだりする以上に、私たちの事務所にお預かりした貴重な資料類に触れていると、現代美術作家である前に『きりん』編集者であった浮田さんの、かけがえのない業績を後世に伝える大きなミッションを肌で感じることができます。
私には美術作品を扱うための専門的な知識やキャリアがないため、これから研鑽を積んでそれらを身につけてゆかねばなりません。「浮田要三と『きりん』の資料室」を開設して維持してゆくに当たり、私の支えになっているのは、敗戦直後の焼跡の真ん中に建てられた小さなバラック小屋で、『きりん』が10年以上発行されたという歴史の真実です。
この営みについて、晩年の浮田さんとの対談で鶴見俊輔がこう述べています——
足立さんが『きりん』のことを書いた「地方文化の潮流」は、足立さんが若い人の生き方を描いている。あのとき、日本は金の世界ではなかった。この世の中に金と無関係に生きている人がいる、ってことを書きたかった。そのアクセントは、『きりん』を送りだしている浮田要三、星芳郎というふたりの若者が、芸術家でもないし、芸術批評家でもない、そのことにポイントがある。芸術家でもない人が金に振りまわされない世界を守っていることを書きたかったのですね。金によって振りまわされない活動の部分を自分のなかに保つこと、「ただの世界」というものが『きりん』のなかにはあった。
『浮田要三の仕事』所載 対談「点と線を結ぶもの」より
最晩年の浮田さんに触れた何人かの口から、私は直に次の言葉を聞きました。
「最後まで、浮田さんは『きりん』の仕事を続けておられたんだと思います。」
「『きりん』の仕事」に終わりはなく、それが今、私の目の前にあることを感じます。
(2023年7月8日)
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