私は「大阪国際児童文学館」がかつて大阪時代の『きりん』全巻を所蔵した施設であり、残念ながら今では存在せず、多くの資料が大阪府立中央図書館に移されていることなどを、以前から人伝に聞いて知っていました。
ここに、それ以上の関心を持たなかった私が、上に掲げた鳥越信氏による『蔵書解題』を古本で手に入れるに至った経過を記しておきたいと思います。
最近、思いがけなく児童文学者の鳥越信(1929-2013)氏が壇上で語る姿に触れました。
2008年4月20日に開かれた「『子どもの本・九条の会』設立のつどい」の記録映像です。
名だたる児童文学関係者と並んで鳥越氏もマイクを握りましたが、そこで国際児童文学館の危機について触れ、強く訴えておられたのです。
氏は戦争について「楽しいことが一つひとつ無くなってゆく日常だった」と語りました。大学卒業後勤めた岩波書店の上司に石井桃子(1908-2007)がおり、彼女から口癖のように「子どもから『アラビアンライト』を取り上げる政府が現れたら、命をかけて戦います」と聞かされたそうです。この言葉と、当時始まっていた橋下徹大阪府知事による国際児童文学館廃止の強行策への反対運動とを「同根の暴挙」と捉え、「子どもたちから楽しい本を取り上げる」政治を許してはならない、と訴えて発言を終えられました。
奥付によれば、私が浮田さんを知るきっかけとなった「『きりん』の絵本」の発行が同じ2008年の7月10日、編者の加藤瑞穂・倉科勇三両氏によるあとがきが4月となっています。
何度も動画を視聴しながら、あらためて児童詩誌『きりん』を巡る歴史の実像を突き付けられる思いがしました。
私は、鳥越氏が十五万点以上の蔵書を同館に寄贈した人物であることも、恥ずかしながら初めて知りました。『蔵書解題』は「大阪国際児童文学館を育てる会」の会報に1986年以来20年余82回を数えた連載記事をまとめたもので、同館所蔵の膨大な資料の中から明治時代の子どもの本を紹介しています。奥付に2008年12月4日発行とありますから、この一冊が誕生した経緯は、決して幸福なものではなかったのです。(同館は2009年12月27日に閉館)
『浮田要三の仕事』巻末に寄せた文章の中で、絵本作家のおーなり由子さんが「大学生の終り、『きりん』を国際児童文学館に納めることになり、私はおっちゃんの家にまとめるのを手伝いに行っていました。」と記しておられます。おそらく1980年代後半のことです。
この件を、鳥越氏の悲痛な訴えを経て読み直すと、浮田さんが『きりん』をどんな思いで後世に託そうとしておられたかが胸中に迫り、込み上げるものを禁じ得ません。
現在、こうして私は長野県上田市にある「小宮山量平の編集室」Editors' Museumに通い『きりん』を精読する作業を続けています。けれども、国際児童文学館が現存するならば、必ずや私に先立って児童詩誌『きりん』に興味・関心を抱き、その全容を知りたいと願い、それらに向き合った人間が現れたにちがいない、と思われてならないのです。
当時の状況を報じた新聞記事をデータで読むことが出来ました。以下に抜粋を掲げます。
十五万点以上を寄贈している鳥越さんは会見で、児童文学館と図書館の違いとして専門員が資料を読み込み、世界中からのリクエストに正確にこたえ、情報発信ができるかどうかだと強調。「私が寄贈したのは図書館ではない。信義にもとる。広く閲覧に供するだけが目的の図書館では文化遺産としての貴重な資料が死んでしまう」とし、「単に戻せというのではない。予算は凍結し、資料が生かされる道を原点にもどって考えようと言いたい」と述べました。
「大阪府立児童文学館 移転なら資料返還を 寄贈の鳥越氏ら 知事に要望書」
2009年2月26日「しんぶん赤旗」(データ版)
同じ記事の一文に、「要望書は、知事が『寄贈者の思いに反するならば本をお返しする』と発言していることをうけて提出したもの」とあり、胸が潰れる思いがします。
「焼け跡の『きりん』」を発刊した直後に知らされた鳥越氏の闘いが胸に一入沁みます。『きりん』を伝承しようとする営みは、文化の抹殺との闘いでもあるのでしょう。
読者の皆さまへ
連載「『きりん』を読む」は、画像と文章の著作権をより慎重に扱うべきとの反省により然るべき手続きを履行してから再開させていただきたいと考えています。どうぞご了承くださいますようお願いいたします。
(2024年9月30日)
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