月花舎・窓際の風景
去る11月4日(月・祝)の18時より、神保町月花舎に於いて「『きりん』を語る会」が盛会の内に無事終了しました。短い宣伝期間だったにもかかわらず、20名弱の参加者を得ることが出来ましたのは、月花舎関係者各位のおかげです。心より感謝いたします。
今回は、宮尾が独りで語るのではなく、司会者の赤羽卓美さんによるスマートな進行と、和服に身を包まれた女優坪井美香さんの清冽な朗読が加わることで、児童詩誌『きりん』の魅力をより重層的に表現することが出来たように感じています。
カフェ月花舎は古本の街神田神保町の九段下寄りにあるテナントビルの一階にあります。
今回の会は、月花舎が開催されている「ブックカフェ」の第三弾として企画されました。
店内には猿澤恵子さんご提供による『きりん』約40冊と、浮田要三作品3点、そして『浮田要三の仕事』「焼け跡の『きりん』」などの関係書籍を展示させていただきました。尚、繊細な『きりん』(オリジナル)の展示に際しては小海町高原美術館学芸員の中嶋さんが快く2022年の展覧会で手配された什器をご提供くださいました。
「赤ののれん」
『きりん』と関係書籍の展示
坪井美香さんの朗読
イントロに貴重な蓄音機ビクトローラ・クレデンザの音色で笠置シズ子の『買物ブギ―』(1950年)をかけてもらいましたが、『きりん』が生れた時代の空気が伝わって来て、いきなり会場が浪花文化の熱気に包まれました。
お話の内容は、関東地域在住で初めて『きりん』と現代美術作家浮田要三について知る方が多かったため、赤羽さんの質問に導かれながら児童詩誌『きりん』の成立の経過や、創刊時にかかわった人物について、『具体美術協会』について、「焼け跡の『きりん』」で紹介した誌面の内容について、宮尾が『きりん』を知るきっかけになった作家の灰谷健次郎さん
や理論社の小宮山量平さんについて、など概論的な内容も含めました。
坪井さんとは、あらかじめ子どもの詩を選んで打合せをし、9篇の作品を読んでいただきました。戦争により夭折した詩人竹内浩三の作品に取組んで来られた坪井さんの朗読で戦後間もない子どもたちの詩作品を聴く時間は、格別でした。声に乗って、子どもたちの息遣いがよみがえるような、不思議な感慨が湧きました。
スライドでは、主に「焼け跡の『きりん』」で概説した創刊当初から1951年頃までの子どもによるユニークな抽象作品を浮田さんが表紙絵やカットに見立てた誌面のレイアウトをご紹介しました。これには、参加者のどなたからも、『戦後間もない時期に、これほどに美しい世界が実現されていたのか!』と、ため息が漏れていました。
赤羽さんの質問には、今後調査にヒントとなるような鋭い指摘が多々含まれていました。たとえば、「プロの画家は、子どもたちの詩を読んでから挿絵を描いたのだろうか?」との質問には、明確にお答えできませんでしたが、確かに『きりん』編集のプロセスを明らかにする上では欠かせないテーマだと思います。
あらためて、エディトリアルデザイナーとして浮田要三が遺した仕事についても新たな光が当てられるべきでしょう。
終盤には、参加者からお一人ずつ感想をお聞きする機会も得ました。宮尾のすぐお隣には毎日新聞の記者さんが座られ、熱心にお聴きくださいましたが、同じ毎日新聞の記者だった井上靖さんが『きりん』の生みの親だったことを考えると、感慨も一入です。参加者にも、現代美術作家、近代文学研究者、建築家、画家、子どもとかかわるお仕事をされている方、など実にさまざまな生き方をされておられる皆さんがおられ、それぞれがご自分のことばで浮田要三と『きりん』の世界に触れた感想を語ってくださいました。
そして、会の終りに、つい最近浮田さんの長女小﨑唯さんから届いた2005年秋の浮田さんが大阪の障害者施設で絵画指導をされるお姿を写した貴重な記録映像をご紹介することが出来ました。その親しみ易い自然なお姿は、「焼け跡の『きりん』」でご紹介した子どもの台詞「『きりん』のおっちゃん来てるわー」そのものでした。浮田さんの生涯が、若き日に心血を注がれた『きりん』の精神をひたすら守り続けた一筋の道であったことを皆さんに理解していただけたことと思います。
(2024年11月17日)
※お知らせ
大変うれしいお知らせです!
月花舎様のご厚意により、クリスマス頃まで、カフェ店内の展示を延期してくださることになりました。関東地域ではなかなか触れる機会の少ない『きりん』(オリジナル)の展示と関係書籍、オリジナルTシャツの販売の期間延長です。どうぞ、この機会にお知り合いの方々にもご紹介ください。
今回、初めて開催した「『きりん』を語る会」でしたが、参加者の皆さんからのご好評を得て、シリーズ化していただけることになりました。次回の開催については、関係者各位とご相談の上でお知らせいたします。
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