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『きりん』を読む・番外編3


『きりん』 1960年7月号30頁        (エディターズミュージアム所蔵)



 今回は、どうしても書き留めておきたいことがあり、年代記的に『きりん』の内容を紹介する連載をお休みして、ここ数日の想念を書かせていただきたい。


 3月25日火曜日の午後3時ごろ、私の住む長野県にある松本空港に、沖縄県宜野湾市にある米軍普天間飛行場所属の輸送機MV22オスプレイが緊急着陸する事件があった。

 翌26日の午後4時半ごろ、整備部品を運搬する別機が着陸し、15分後に離陸した。

 2日後の27日午前10時半前になって、ようやく当該オスプレイは離陸した。

 この間、けが人は出なかったものの、滑走路は一時閉鎖され一部の旅客機が欠航するなどの影響が出た。

 28日閣議後の記者会見では、中谷元防衛大臣が「引き続き米側に対し、安全管理に万全を期するように求めた」と述べた。同日、長野県の阿部守一知事は、県庁を訪問した防衛省北関東防衛局長に原因解明と詳細な情報提供を求める請願書を渡した。


 先週来、国会で年度内予算案通過に向けた議論が続き、海の向こうではパレスチナのガザやウクライナで停戦が破られるニュースも入り、暗澹たる気持ちの内に過ごして来た。

 ちょうどそんな折、1960年7月号の『きりん』を読んでいたところ、特選詩ではなく児童作品の枠に、私は冒頭の作品を見つけた。

 愛知県豊橋市旭小学校5年生の酒井正巳少年の訴えが、何ら声を上げることもせぬまま、諦めに近い気分で日々を送る我が身を、ピシッと打った。

 

 この詩が選者竹中郁によって選ばれ、『きりん』編集部で活字に組まれていた1960年の6月は、15日に日米安全保障条約の締結に反対する学生たちが国会議事堂を取り囲んだ大規模デモの渦中、芦屋市出身で東大生だった樺美智子さんの死亡事件が起きた時期だ。

 当時小学校5年生だった酒井少年は1949年ないしは1950年の生れと想定される。敗戦から4、5年、まだGHQが日本を占領していた。彼は『きりん』と同じ時代を生き、朝鮮戦争から保守合同を経て安保闘争に至る戦後史を子どもながらに経験していた。

 1960年時点で白黒テレビの普及率は都市部で45%弱だったという。彼が持っていた情報源は、新聞と大人たちの会話だったはずだ。現在のように誰もがスマホやタブレットを手にして瞬時に世界中からの最新情報を手に入れる時代とは、まったく異質な生活環境だ。

 それにしても、この詩に現れた大人顔負けの鋭い批判精神はどうだろう。

 「ふろ屋のエントツにぶつかりそう」なジェット機の轟音、「アメリカのふるだからしかがたない」という屈辱、「日本は戦争をしないのに」、「ありがためいわくだ」との苦渋。

末尾の「今度は高い金を出してそれを買うという。」にこもった憤懣。

 

 前回のブログで『「戦後」を点検する』(講談社現代新書 保坂正康・半藤一利)という書物に触れたが、2年間をかけて、ようやく私自身の個人史と『きりん』の時代が連続性を持った歴史として感じられるようになった。『きりん』が大阪での歴史を閉じたのは、私が生まれた1966年の4年前のことだった。

 それらが、特定の政治的な意図により集められた言葉ではないがゆえ、子どもたちの詩や作文からは、より鮮明に、正直な気持ちや考えが読み取られる。

 ひるがえって、私自身の内に、この詩から伝わって来る「憤り」は燃えているだろうか?日々、悲惨な事件や傲慢な為政者のふるまいを伝える情報を受け止めかね、なすすべもなく時間をやり過ごす私の中にも、燠(おき)のように残された火種のあることを信じたい。


                             (2025年3月29日)



謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。  ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)


※『きりん』掲載の絵画(立体)作品および詩・作文などの作品について、著作権者が不明のままであることをお伝えいたします。もしも、ご存知の方がおられましたら、ご連絡くだ

されば幸いです。 (090-5796-7506 宮尾)


 

 

 

 

 


 

 


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