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『きりん』を読む・14  

 

 今回は、1951(昭和26)年の7月号、8月号の2冊を取り上げる。後に浮田さんはこの年は「現代美術」の視点から見た表紙絵の傑作が輩出した、と回想された。わけても、8月号の「夕日の中を走る汽車」は最高傑作と言われ、浮田さん自身がアーティストとして大きな影響を受けた作品である。京都市立富有小学校の西田秀雄教諭による生徒作品の紹介文にも、子どもの創造性に寄せる彼の熱い思いが溢れている。



第4巻第1号:1951(昭和26)年7月号


表紙絵:今濱昭(小学生) 挿画:東貞美

とびら絵:磯崎敏夫(小学生)

特選詩数:4 詩数: 50 綴方:お休み  

 


      図1.        (エディターズミュージアム所蔵)



           図2.        (エディターズミュージアム所蔵)


           図3.        (エディターズミュージアム所蔵)



           図4.        (エディターズミュージアム所蔵) 



解説

図1.京都市内の小学1年生男子の作品。朴訥とした機関車のフォルムと穏やかな色使いが

   印象的だ。あるいは次号の表紙絵への伏線か、とも解釈できる浮田さんの選択。

図2.挿絵は東貞美による。東は当時、神戸市立春日野小学校に美術教師として勤務してい

   たが、この時期浮田さんが頻繁に同校を訪問した形跡があり、急速に親交を深めた。

図3.京都市内の小学4年生女子の作品。つぶやきの言葉がそのまま詩になった。自分自身

   の幼年時代が戦争によって寸断された経験を踏まえた姉らしいまなざしが痛々しい。

図4.竹中郁による「詩の教室」は連載だが、毎回、当時の竹中の詩に対する姿勢や理解が

   反映されており、竹中の詩作とのかかわりを想像させる。以下に内容を紹介する。



~内容の紹介~ 竹中の本文から引用

 「詩にはわるい行(おこな)いや、みにくいことを書いてはいけないとおもっている人があります。それはおもいちがいです。どんな、わるいこと、みにくいことを書いても、それがしょうじきに書いてあればよろしい。しょうじきに書いたということは、その人のこころが、もう、すでにそのわるいことや、みにくいことをふりかえる力があって、その力がはたらいているのです。」

 こうした考え方が、おそらく『きりん』の編集室には共有されていた。子どもの自主性を尊重した同誌ならではの大切な視点を含んでいる。


【宮尾の読後感】

 同じ号の「詩の教室」には岸和田市立城内小学校6年3組の生徒と教師による詩をめぐるダイアローグ(対話)が載っている。現在文部科学省が推奨している「反転授業」あるいは「アクティブ・ラーニング」といった実践を先取りしたような先駆的な内容に驚く。

 詩作を真ん中に据えた授業展開や学級運営を実践する教師が当時あちこちで活躍していたことも推測され、『きりん』を教育実践の視点から考察する必要を痛感させられる。





第4巻第1号:1951(昭和26)年8月号


表紙絵:坂本正美(小学生) 挿画:川島昇太郎

とびら絵:きのしたしげき(小学生)

特選詩数:6 詩数: 33 綴方:4 


           図1.        (エディターズミュージアム所蔵)


           図2.        (エディターズミュージアム所蔵)


           図3.        (エディターズミュージアム所蔵)


           図4.        (エディターズミュージアム所蔵)




解説

図1.14年間続いた大阪時代の『きりん』表紙絵の中で浮田さんが最高傑作と呼ぶ作品。

   西宮市立芦原小学校4年生男子の『夕日の中を走る汽車』。汲めども尽きぬ魅力。

図2.「皿売りのおんちゃん」は酔っ払って皿を売る行商人を描写した小学3年生男子の

   作品。戦後の雑踏を感じさせる。挿絵は、川島昇太郎(1908-1991)春陽会会員。

図3.表紙絵と同じ学校の3年生男子の作品。校舎の廊下を上から見下ろした俯瞰図だが、

   独特の力強い構図に驚く。同校には、須田剋太が美術教師として勤務していた。

図4.「わたしのすきな繪」と題した京都市立富有小学校教諭の西田秀雄の文章。数多くの

   詩や絵画の秀作を『きりん』に送り込んだ重要な実践家。以下に内容を紹介する。



~内容の紹介~ 西田の本文から引用

 「こどもは神さまだ。こどもはほとけさまだ……とわたしはいつもおもうんです。ほとけさまたちが絵をかいたとしたら、きっとこどもたちのかく絵おなじようだろうとかんがえます。だからこどもの絵を見ているとたまらなくいい気持になるんです。そして絵の先生であるはずのわたしがこどもたちの絵をまねしてかこうとおもってるんです。」

 不思議な呼吸を感じさせる文章からも西田の人間性が想像される。ひんぱんに誌面を飾る見事なクロッキーの作品は、こうした彼のまなざしへの子どもたちからの応答だった。



【宮尾の読後感】

 1948年の創刊から4年を経て、『きりん』は頼りになる書き手や作り手に恵まれた。この号には、当時の充実した教室の熱気が溢れている。浮田さんと星さんは、たとえ赤字であろうとも、こうした魅力的な教師や子どもたちに会うのが楽しみだったのにちがいない。敗戦から6年、当時日本はまだGHQによる占領下に置かれていた。

 この年の9月に、サンフランシスコ平和条約が結ばれ、ようやく我が国は自立の道を歩き始める。子どもたちの作品を通じて、もの凄い勢いで海の向こうから入って来る情報や刺激に飲まれそうになる市井の生活が想像される。



あとがき

 奇しくも、79回目の終戦記念日にこの文章を記している。

 最近、『兵士の詩 戦中詩人論 』桑島桑島玄二著(1973年理論社刊)を読んだ。   そこには『きりん』を創刊した頃の井上靖の詩が引用されていた。詩人が、戦地に散った友に向けた相聞歌が含まれ、私は初めて当時の井上の心情に直接触れた気がした。

 「世界一美しい雑誌を」と願った詩人の心中を想像すること無しに、『きりん』に生半可な気持ちで対することはできない。そう思わずにおれない。


 


                             (2024年8月15日)



謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。  ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)



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