今回は、1951(昭和26)年の9月号から12月号の合計4冊を取り上げる。今回で昨年9月に発刊した「焼け跡の『きりん』」で扱った範囲の概要紹介を終えることになる。
創刊号以降の『きりん』を丁寧に精読する作業を通じて、自分自身の目で草創期のプロの画家による挿絵が徐々に子どもたちの作品へと移行する変遷を確認することができた。
そこで、この連載では、次回から意識的により多くの子どもたちの作品を紹介することにしたいと考えている。
第4巻第9号:1951(昭和26)年9月号 【38冊目】
表紙絵:溝渕かずえ(小学生) 挿画:須田剋太
とびら絵:西田勝子(小学生)
特選詩数:3 詩数:33 綴方:お休み

図1. (エディターズミュージアム所蔵)

図2. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.神戸市立春日野小学校6年女子の作品。この号の少し前に挿絵を提供している東貞美
が美術専科教諭として勤務していた。『きりんの絵本』に寄せた文章の中で浮田さん
自身が東との印象的な出会いの様子を語っている。当時の東の画風をなぞったような
抽象作品だが、校舎を描いたものか?
図2.同校5年生女子の作品。表紙絵と同様に力強い構成力を感じさせる。作品を活かした
浮田さんのレイアウトにも注目したい。画面の色味と目次の一部の活字のフォントを
揃えている。挿絵を須田剋太が提供していることにも注目したい。
~内容の紹介~
特選詩は長野市立後町小学校6年女子の散文詩「終戦の思い出」。
昭和二十年八月十五日。
大日本帝国のはい戦報道があって、よく日から町はあらあらしくなった。
大連市より南満州鉄道を北へ二時間、日本人人口一万たらずの
「ふらんでん」では、まもなくぼうどうがおこった。
ここが私たちのすんでいた町で、
それはわすれられない八月の二十五日。
朝からむし暑くて、みんなシャツ一枚で夕はんをたべていた。
この精緻な書き出しから、見開き8頁に及ぶ。
長野県は、全国でも満蒙開拓団に全国で最も多く開拓民を派遣した歴史を持つ。
敗戦から6年を経て、ようやく遅かった父の帰国を待って家族の生活を取り戻した少女の心情が、冷静沈着な文章で綴られているのに驚嘆する。
【宮尾の読後感】
編集者竹中、坂本、足立による読み物も充実を見せている。「かきおきびより」は、坂本自身の戦争体験に根差した物語で、敗戦の一月前に南方で戦死した兄のかきおきに従い遺族が死者を弔う様子が描かれている。
ぼくがしんでも、おはかは、つくらぬようにねがいます。家をでるときに、のこしておいた、カミの毛とツメがありますから、それを火にやいて、ハイにして、よく晴れわたった日に、やねの上から空にまいて下さい。それから、少しのハイを、うらのカキの木のねもとへうずめておいて下さい。ぼくのからだはしにましても、たましいは家のうえや、家の土の下でいきております。さようなら
竹中が物語詩(バラッド)と称した巻頭の少女の詩と、坂本の物語が深く共振している。
第4巻第10号:1951(昭和26)年10月号 【39冊目】
表紙絵:寺谷良治(小学生) 挿画:秋野不矩
とびら絵:アロウ島(東印度諸島)の子どもの画
特選詩数:4 詩数:57 綴方:4

図1. (エディターズミュージアム所蔵)

図2. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.須田剋太が前号の表紙絵と並べて絶賛した春日野小学校5年男子による抽象画。自由
奔放な描線も微細な色付けも、プロも顔負けの魅力がある。作品の色味に添った浮田
さんの端正なレイアウトにもうなる。
図2.扉絵に、初めて海外の児童作品が採用されている。プリミティブな世界観漂う線画に
当時の読者はどんな印象を受けただろうか?表紙裏面の二社の広告には、児童向けの
月刊誌に込めた企業のねらいや期待が感じられて微笑ましい。
~内容の紹介~
雪の朝 (京都市深草小学校5年 宮田京子)
大雪の日だった。
馬の鳴き声で私は外へ出た。
二人の馬方にひかれた二ひきの馬が
雪のふるアスファルトの道を
ころびそうになりながらやってくる。
私はじっとみていられなかった。
足に金がうちつけてあるので
よくすべるのだ。
大きなせなかからゆげが立って
寒そうだった。
馬は雪の中でかなしそうにないていた。
馬方はなんどもしかりながら
坂をのぼろうとしたが
どうしてもすすめなかった。
うま方は
しかたなしに車をはずした。
馬はらくそうになったが
まだ鳴いていた。
やがてふりしきる雪の中を
馬はすべりすべり帰っていった。
その後ろすがたを
私はいつまでも見ていた。
あくる朝
車は
雪をかぶったままで
置かれてあった。
特選詩には、若き秋野不矩による繊細な挿絵が添えられ、詩情を深めている。特選詩以外にも、多数の魅力的な作品が見受けられる。児童の作品の最終頁の枠外には、編集部による78名の佳作者名簿も見られる。
【宮尾の読後感】
先ほども触れたように、先月号と今月号の2枚の表紙絵を並べて須田剋太が「表紙絵について」という短文を寄せている。当時、自身も西宮の小学校で子どもたちに接していた須田が当時大切にしていたことが書かれている。「こころのうごくままにかいていけばいい」。
同じ号に吉原治良が「落書きとチュリンガ石」と題した自身の幼少期の回想記を寄稿しているのも象徴的である。両氏がこの後、現代美術作家浮田要三に与えた影響は大変大きい。
第4巻第11号:1951(昭和26)年11月号 【40冊目】
表紙絵:藤原みさ子(小学生) 挿画:森啓
とびら絵:いけださちこ(小学生)
特選詩数:4 詩数:77 綴方:3

図1. (エディターズミュージアム所蔵)

図2. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.浮田さんが後年、NHKラジオ深夜便でも吉原治良と一緒に教室でこの作品を見た時の
思い出を語っておられる。「ハイカラな絵やなぁ~!」と異口同音に叫んだという。
岸和田市山滝小学校は浮田さんの中でも思い入れの深い訪問先の一つだった。
今見ても繊細な描線と垢抜けた色彩感覚は斬新でとても占領下時代とは思われない。
図2.詩の醸し出すユーモアが微笑ましい。添えられた挿絵は、一見岡本太郎のような印象
を受けるが、森啓の作品。1955年冬に大阪市立美術館の彫刻室で『きりん』展が
開催されたが、森氏は当時同館の学芸員を勤めていた。この号では作家として抽象画
を数葉提供している。
~内容の紹介~
十三まいり (京都市富有小学校6年 鎌田忠則)
「うしろ向いたら
あかんのえ」
「うしろ向いたら
ちえぬけるえ」
といってる子
うしろ向いて
いっている
女性デュオかりきりんの名曲の一つになった元の詩。私は前回関西を訪問した際、電車の車窓から京都の法輪寺の看板を初めて見た。数ある『きりん』作品の中でも楽天的な傑作。
ちゅうしゃ (大阪市田辺小学校3年 山口雅代)
へんとうせんのちゅうしゃを
足のふとももへした
うでの方がちかいのに
のどからとおい
ふとももへした
『きりん』の代表的詩人山口雅代さんが3年生の時に書いた作品。特選詩には選ばれていないものの、彼女ならではの批判精神が現れた子どもらしい観察眼が光る。
【宮尾の読後感】
子ども向けの読み物の中に、『どこかで春が』の作詩者百田宗治による「くるみの木」と題した北海道富良野に児童養護施設の文集の紹介文がある。世代的には竹中や坂本より一つ前の大正期の詩人だが、詩壇の大御所が疎開先の北海道で知った施設の文集を『きりん』に寄せているのも大変興味深い。今となっては確認する術もないが、『きりん』への有名詩人による寄稿がどんな過程を経て成り立ったのかを調べるのも魅力的テーマだろう。
第4巻第12号:1951(昭和26)年12月号 【41冊目】
表紙絵:播本洋(小学生) 挿画:津高和一
とびら絵:旦勲(小学生)
特選詩数:5 詩数:60 綴方:4

図1. (エディターズミュージアム所蔵)

図2. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.創刊以来、初めて子どもの立体作品の写真が表紙に選ばれた。芦屋市立宮川小学校の
五年男子の作品。吉原治良が巻末の「表紙絵について」でそれが竹ひごと割り箸とで
作られたことに触れている。『むつかしいりくつはいりません。なににもにていなく
ても、てじかなざいりょうでいろいろのかたちをつくってごらんなさい。』指導者は
吉田一夫(岩園小学校から転任?)とある。
図2.扉絵も、表紙と同様の立体作品の写真。表紙、もくじ共に、浮田さんのレイアウトの
センスが光る。もくじからも分かるように、この時期にはすでに詩、作文双方かなり
の作品が寄せられていたこと、寄稿者の顔ぶれも充実を見せていたことが知られる。
挿画は吉原と並んで関西画壇の抽象画を牽引していた津高和一。
~内容の紹介~
妹 (京都市葵小学校6年 高木啓子)
よごれたシーツの花もようの上に
思いきり毛をみだらかして、
妹が丸くなってねている。
夕方、誰かになかされて、いくところがないから、
しょぼんと人けのない家へ、しょうことなしに、帰ってきたのだろう。
おやつがないかと、戸棚をあけあけないただろう。
お仕事のお母さんがおそいからきっと、おげんかんの方をみてないていただろう。
まつげが、ぬれて、ほこりっぽい顔に、涙のすじが、二本曲って、流れている。
私は、本をひらいたまま、じっと見ていた。
姉も、のこった新聞を小わきにかかえたまま、げんかんでじっと見ていた。
細い目をふるわせて、母も仕事着のままみていた。でも眼は、いつものように、乾いた眼
じゃなかった。
母と三人娘との4人暮らしの家族が描かれている。子どもとは思えない洞察と描写の背景に何を読み取るかは、読者に委ねられているようだ。
【宮尾の読後感】
読み物に、竹中が「アナトール・フランス先生」という見開き2頁の文章を書いている。
「くろい帽子(ぼうし)をかむってあごひげをはやして、めがねをかけたおじいさん」がセーヌ川のほとりで肩を叩いた、という。とても子ども向きとは思えない一編のエッセイ。おそらく若き日に竹中が親友の小磯良平と共にパリに留学した時期に、実際にあった出会いに基いているのだろう。『きりん』がいかに広い視野と経験から編集されていたかを、この短い文章を味読することからも痛感する。
あとがき
昨年夏にシリーズの14回目をお届けして以来、体調不良などの個人的な理由から連載が滞ってしまったことを心よりお詫びします。
「焼け跡の『きりん』」を書き終え、1951年までを一つの区切りとして、この月刊誌の草創期の歴史を概観することができた。
その後も定期的に『きりん』の誌面と向き合う精読作業を続けているが、こうして継続的に読み続けることにより、毎号毎号その背景となった世相や社会的事件が透けて見えるような気がする。それと同時に、この月刊誌を毎号世に送り出すまでに、浮田さんを含む編集者たちが何を考え、どんな暮らしをしていたのか?にも思いを馳せることになる。
いつでも、どこでも溢れる情報が手に入る時代に、『きりん』の誌面に向き合わなければ得られない唯一無二の情報に触れる悦びを噛みしめている。
(2025年1月31日)
謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。 ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)
※『きりん』掲載の絵画(立体)作品および詩・作文などの作品について、著作権者が不明のままであることをお伝えいたします。もしも、ご存知の方がおられましたら、ご連絡くだ
されば幸いです。 (090-5796-7506 宮尾)
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