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『きりん』を読む・17

執筆者の写真: miyao0107miyao0107

 

 今回は、1952(昭和27)年の4月号から6月号の合計3冊を取り上げる。

 年を追うごとに浮田さんと星さんが訪ね歩く学校現場から寄せられる詩、作文、絵画など子どもたちの作品は着実に充実を見せるようになる。

 この流れと並行して、関西の文学者や画家が『きりん』に作品を寄せる機会も増え、両者が相まって熱気を帯びた誌面が定着してゆくのが感じられる。

 今回も、忘れがたく個性的な子どもたちの表現を画像と共にご紹介したい。



第5巻第4号:1952(昭和27)年4月号 【45冊目】


表紙絵:井上隆三(小学生) 挿画:西田秀雄・津高和一・東貞美

とびら絵:井上隆三

特選詩数:4 詩数:68 綴方:3 



図1.                      (エディターズミュージアム所蔵)



図2.                      (エディターズミュージアム所蔵)



図3.                      (エディターズミュージアム所蔵)



図4.                      (エディターズミュージアム所蔵)



解説

図1.岸和田市立山滝小3年生井出隆三君の作品。このレイアウトには、浮田さんの作者と

   作品への特別な愛着が感じられる。あたかも額縁で作品を飾るかのようだ。

図2.溢れる愛情がもくじの頁にも。現在ならばアールブリュッドと呼ばれる範疇に属する

   作品。挿絵の画家の顔ぶれにも注目。この号から、坂本の「神さま」が始まる。

図3.「ひょうしえについて」は、浮田さんが深く尊敬した同校の教頭だった栗岡英之介氏

   による名文。ひとりの生徒の内面に向けた洞察の深さは、何回と繰り返して読んでも

   尽きることの無い滋味に溢れる。さり気なく添えられたカットにも注目。

図4.赤鉛筆で書かれた「第二集採用済」とは、合計三集が発行された『全日本児童詩集』

   を指している。灰谷氏旧蔵だが、文字は当時の編集部関係者によるもの。挿絵にある

   Nのサインは西田秀雄(初回)。富有小での指導を彷彿とさせる味わい深い作品。

   


~内容の紹介~

 表紙絵、扉絵を味わい、栗岡氏の「ひょうしえについて」を繰り返し読んで欲しい。ここには、児童詩誌『きりん』の基底にある子どもに向けられたまっすぐな愛情がある。

 1952(昭和27)年は日本が戦争に負けた7年後にあたるが、「インクルージョン」「多様性の尊重」などという標語など無かった時代、学校現場でこれだけ真摯な子どもへの敬意が息づいていたことに胸が熱くなる。

 

 りゅうぞう君のともす火は、ほんとにかすかな、一すんろうそくのような火であるかもしれません。けれども、この火はちいさくても、りゅうぞう君の火であってだれの火でもありません。また、りゅうぞう君だけがともすことのできる火であるともいえるでしょう。


 同じ号に、当時京都市の富有小学校で絵画と詩の指導を牽引していた西田秀雄による挿絵が見られるのも大変印象深い。彼らのような教師たちとの子どもをめぐる濃密な空気に身を浸した若き浮田さんの生活は、刺激に充ち、充実していたことだろう。



【宮尾の読後感】

 ページを開いて、そこに赤鉛筆の文字を眼にした瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。合計三集が出版された『全日本児童詩集』は『きりん』と同様に今や大変希少な書物だが、この書き込みからは、当時の編集部の熱意が直に感じ取られる。

 この冊子を所蔵していた灰谷健次郎氏が、果たして誰からこの一冊を譲り受けたのか?は今となっては知る由もない。でも、私にはそれが浮田さんだったように思われてならない。



第5巻第5号:1952(昭和27)年5月号 【44冊目】


表紙絵:土坂千嘉子(小学生) 挿画:秋野不矩・津高和一・東貞美

とびら絵:山田忠義(小学生)

特選詩数:4 詩数:   綴方:5 



図1.                      (エディターズミュージアム所蔵)



図2.                      (エディターズミュージアム所蔵)



図3.                      (エディターズミュージアム所蔵)



解説

図1.京都市富有小学校3年生土坂千嘉子さんの作品。正確な人体の把握と印象的な色彩も

   去ることながら、首から上が描かれない不思議な構図に目を奪われる。3年生?

図2.西宮市芦原小学校5年生山田忠義君の作品。名作の『夕日の下を走る汽車』を生んだ

   同校では須田剋太が教えていた。力強い構図、迷いのない描線に須田の指導が滲む。

   表紙の色味に合せた浮田さんのレイアウトのセンスも光る。

図3.タイトルは「世界大戦」。今、この時代にこの詩を読むと、『きりん』の誌面に埋蔵

   された夥しい名も無き人々の声が痛切に響いて来る。切り詰められた言葉の選び方、

   末尾に置かれた心底からの叫び。



~内容の紹介~ 西田秀雄の「ひょうしえについて」から引用


 ひょうしの絵はちょうどトルソーのようにできていますが、これをかいた千嘉子さんはトルソーもしりませんし首をかかずにおこうとしたわけでもありません。いつもじんぶつ(人物)は上の方からかき出すのがふつうですが、千嘉子さんはこの時間はんたいに足の方からかきはじめたのです。下からかこうなんて考えついたのはえらい子ですよ。

 そのけっかどうしてもかおがかけなくなった、ただそれだけなのですが、私には「これはトルソーのうつくしさだ」とかんしんしたわけです。


 自らが直接かかわった子どもの作品に寄せた文章からは、日頃の美術教師としての西田の仕事ぶりが伝わって来る。大人が求めたり期待したりする「あるべき形」にはまらない表現であっても、子ども自身の自由な行為とその成果としての作品を新鮮な思いをもって正当に評価する西田の姿勢が若き浮田さんの心を捉えたのにちがいない。

 

【宮尾の読後感】

 愛媛県の小学校4年生宮田欣司君の「世界大戦」は、何度読んでも驚かされる。この詩が書かれたのは敗戦から7年が経過した1952(昭和27)年。現在と違って、当時はほとんど戦時下の実情を少年に知らせる情報媒体(メディア)は皆無だったと思われる。

 戦争を起こす「あくま」と「正義」のせめぎ合い。轟きわたる爆音。結果として残される大量殺戮。


 あああのじゅう声の中に

 父もいるのだ


 末尾の二行に、突如彼の身体からの肉声が静かに置かれている。

 傍らに添えられた詩人竹中郁の冷静な詩評。何百もの子どもによる作品と向き合った詩人の寸評に込められた思い。それが未成年よる表現であっても、あくまで作品としての評価を離れない竹中の冷徹さを感じる。この客観性の内に『きりん』のエスプリが生きている。

 

 


第5巻第6号:1952(昭和27)年6月号 【45冊目】


表紙絵:井川港一(小学生) 挿画:秋野不矩・東貞美

とびら絵:三木理正・重ちえ・水口俊作・やぶとし子

特選詩数:4 詩数:56 綴方:4 



図1.                      (エディターズミュージアム所蔵)



図2.                      (エディターズミュージアム所蔵)





図3.                      (エディターズミュージアム所蔵)



解説

図1.芦屋市宮川小4年生井川港一君の作品。落ち着いた配色、壺の表現、背景の藍色など

   地味ながら印象深い。絵を活かしているのはやはり浮田さんのレイアウトだろう。

図2.もくじ上の扉絵に4つの作品が並ぶのは『きりん』の長い歴史の中でもこの号に限ら

   れる。芦屋市宮川小、京都市富有小、岸和田市山滝小はいずれも『きりん』を支えた

   浮田さんお馴染みの小学校だった。

図3.岸和田市山滝小6年生沢正彦君の作文。同年1月号(通巻42号)の『綴方教室』に

   掲載された一連の「牛」に取材した作品を坂本が特集の形で取り上げた。(後述)



~内容の紹介~ 坂本遼「正彦君とその作品」から引用


 正彦君は六年生にしては、かんじをしっていません。ことばも、方言(なまり)がほとんどで、本にかいてあるような、ひょうじゅんごをしりません。(中略)「なみだが心のなかでないています」というような、あらわしかたは、正彦君いがいには、ちょっと書けますまい。ふつういっぱんの書きかたがよいか、正彦君のような、どくとくな書きかたがよいか、それはなかなかむつかしいもんだいですが、ただ、はっきりいえることは、正彦君だけには、あまりカタにはまった書きかたをおぼえずに、これからも、正彦りゅうぎの書きかたで、どんどん書いたほうがいいということです。


 「牛かい少年」と題した序文に始まり、沢作品を引用した坂本の文章が挿入され、最後にこの作品論で終る一連の紹介は、実に6頁にわたる。そして「正彦りゅうぎの書きかた」を承認している。これは後にも先にもこの少年に対してだけのことで、もはや坂本による沢君へのファンレターと言って差し支えない。


 後年、浮田さんもこの一節を「詩のアバンギャルド」と称し、『きりん』で選ばれた詩の中でも随一の傑作に数えている。



【宮尾の読後感】

 1952(昭和27)年に入ると、誌面から浮田さんと星さんが関西地域にいくつか拠点とも呼び得る優れた教育実践が営まれている小学校を見出し、丁寧に通い詰めている様子がうかがわれるようになる。同時に、関西画壇にも海外からの新たな絵画潮流の紹介も含めて既存の枠組みを超えようとする画家たちの集まりが生まれていた。

 こうした時代のうねりの中で、『きりん』もまた、「美術」や「教育」という既存の領域を横断した踊り場(プラットフォーム)として、自由自在に参画者を獲得して行く。

 これまで、ほとんど評価されて来なかった刺激に充ちた実験が『きりん』という場で蓄積されていた歴史を、これからもひも解いてゆきたい。



あとがき

 兵庫県の姫路文学館で開催中の、生誕120年記念『詩人 坂本遼』展を再訪した。

 あらためて、詩人坂本遼の登場が当時の詩壇に与えた強烈なインパクトについて考えた。

特に、草野心平が遼に宛てた手紙には、絶大の信頼と共感が籠められている。モダンボーイの竹中郁に比べると、土の匂いのする田舎出の青年という印象が強い坂本だが、自らの表現に対する強いこだわりは終生変わることが無かったと思われる。

 『きりん』に鮮烈な精神を注ぎ続けた恩人として、坂本遼という詩人をあらためて胸深く刻む時間を過ごすことができた。

 

     

                             (2025年2月28日)



謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。  ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)


※『きりん』掲載の絵画(立体)作品および詩・作文などの作品について、著作権者が不明のままであることをお伝えいたします。もしも、ご存知の方がおられましたら、ご連絡くだ

されば幸いです。 (090-5796-7506 宮尾)

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