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『きりん』を読む・20

  1961年4月号(通巻153号)扉絵 大久保みわ子(京都市北白川小2年) 



 五つの顔が、こちらを見つめている。

 ほほ笑んでいる、ととらえて良いのか、少なくともこちらをとがめるまなざしではない。

 かといって、並んで立つ5人が、何を思い、何を考えているのか?は不明のまま。

 どことなく、この世とあの世とを行き交うことさえできる人たちのようでもある。

 

 『きりん』がその大阪時代を終えるおよそ1年前、通巻153号のもくじの上に置かれたこの静かな絵を一目見て以来、私の内に灯された想念がちらちらと瞬いている。

 

 これは、『きりん』の歴史を語る上で忘れることのできない登場人物、西田秀雄(京都市の美術教師)が担任した学級の作品だ。彼の富有小での10年にわたる仕事が『きりん』にもたらした実績は計り知れない。後の浮田綾子夫人は、彼と一緒に着任した同僚だった。

 西田の指導によるからして、おそらく彼女自身の生活や内面と深く照応する題材を持った絵であるにちがいない。4人の前に置かれた牛乳容器のようなモノにも存在感がある。

 

 この絵の内に、私は、浮田さんと『きりん』の14年という時間の醸した精神の結晶化を感じて、沈黙する。この1枚を、この号のこの頁のこの場所に据えた時の、若き浮田さんの心の在り処について、思いを巡らせる。これは、一人の少女の手による作品でありながら、浮田要三と西田秀雄の協働が到達した地平をも、明らかに示している。


 今まで創刊号から始めて毎回数号ずつ『きりん』の誌面を紹介する連載を続けて来たが、

ある時点から私の中に小さな違和感が芽生え、それをやり過ごすことができなくなった。

 私にとって『きりん』166冊が資料ではなく「ひとつの大きな流れ」に変容し始めた。

そのひとかたまりの流れを、寸断するかのように扱うことが、心苦しくなって来た。

 ここで、私は、率直に読者諸氏にお詫びしなければならない。

 大変申し訳ないが、ここで一旦、「『きりん』を読む」の連載を中断させていただきたい。

そして、大阪時代の『きりん』と浮田要三についてを書物にまとめる作業に着手したい。

 私には、どうしてもこの夏の内に書き込みたい、との強い気持ちがある。

 来るべき巨大な喪失の後にも、私たちに再び歩み始める余地のあることを、『きりん』の歴史を繙くことによって明らめたい。


 冒頭の絵に戻ろう。

 一昨年春から『きりん』を読み始めて以来、私の頭の中は1940年代から1960年代の歴史で埋まっている。『きりん』の誌面から受け取る夥しい情報が、私自身のこれまでの人生にもつながる「日本の戦後史」の出来事に結び付いた時、ようやく理解が始まった。

 思い込むのが激しい私には、五つの顔が、発案者井上靖が東京に移った後に『きりん』を守り続けた5人の編集者の顔に見えてしまう。『きりん』は私の裡に棲みついたようだ。

                               (2025年6月8日)



謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。  ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)


※『きりん』掲載の絵画(立体)作品および詩・作文などの作品について、著作権者が不明のままであることをお伝えいたします。もしも、ご存知の方がおられましたら、ご連絡くだ

されば幸いです。 (090-5796-7506 宮尾)




 

 

 

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