№3
はじめに
第1回、第2回と、それぞれ4冊ずつ『きりん』を取り上げて紹介してきた。第3回では尾崎書房により発行された縦長サイズの『きりん』最後の2冊(12月号、1月号)に特化して、その内容についてより詳細に紹介したい。
これら初期『きりん』の最後を飾る2冊には、創刊から1年弱で加速度的に学校現場から詩や絵の寄稿も増え選者や編集者らの本紙に籠める思いの深化を読み取ることができる。
残念なことに、10号を数えた時点で、おそらくは尾崎書房の経営難により『きりん』は1949(昭和24)年1月から同年5月まで、5カ月間の休刊に入る。
第1巻第9号:1948(昭和23)年12月号
表紙絵:松岡寛一 挿画:松岡寛一
表紙絵下には仲郷三郎のエッセイ「『かん平』の『ほうほう』」
特選詩数:6 詩数:25 綴方:2

図1. (エディターズミュージアム所蔵)

図2. (エディターズミュージアム所蔵)

図3. (エディターズミュージアム所蔵)

図4. (エディターズミュージアム所蔵)

図5. (エディターズミュージアム所蔵)

図6. (エディターズミュージアム所蔵)

図7. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.表紙絵・挿画の松岡寛一については、詳しいことは分からない。小磯良平に近かった
人物らしい。表紙絵には、吉原治良の『縄跳びをする少女』に通じる詩情を感じる。
図2.仲郷三郎は、神戸在住で竹中郁と親交があった作家。初期『きりん』には、こうした
明治の教養を身につけた知識人が子ども向けに書いた文章が独特の味わいを添える。
図3.小学2年の少女のあどけなさと選評者のまなざしに添った松岡氏の挿画が、やさしく
美しい。『きりん』を読むのに時間がかかるのは、こうした魅力に捕まれるからだ。
図4.『きりん』誌上にはめずらしい中学生の詩。早朝の凛とした空気と、輪郭のある生活
の印象も忘れがたいが、一冊の絵本のような奥行きを創り出す挿画の力に魅かれる。
図5.これが、『きりん』に山口雅代さんの詩が初めて紹介された誌面。選者は竹中郁では
なく井上靖だが、両者はこの就学前の少女の出現への驚きを共有していただろう。
図6.愛媛県上分校訪問記。末尾に毎日小学生新聞より転載、とあることから井上靖の紹介
で実現したと推測される。近隣のライバル、妻鳥小学校の名も既にあがっている。
図7.やや「親ばか」気味の竹中の評が微笑ましい。確かにモノの配置や色彩感覚は秀逸。
竹中の選による児童画紹介が定着し始めた印象だが、次号でそれも終わる。
~内容の紹介~
やはり、特筆すべきは当時7歳だった山口雅代さんの母親が口述筆記した「つぶやき」が初めて選ばれ、誌面に掲載されたことだろう。『きりん』の草創期、すでに井上靖や竹中郁ら選者にその詩を認められていたことに驚く。浮田さんも晩年に至るまで『きりん』の持つ「グレードの高さ」を感慨深く語られたが、その折には必ず雅代さんの作品が引用された。同時に、子ども本人の内面の表出であるべきを、母親が手を入れることを明確に戒めていることも、この児童詩誌を一貫して流れていた理念を明示している。
【宮尾の読後感】
この号には、「きりん文庫」発刊の予告が掲載されている。その候補は以下の通り。
「ヒゲぼうぼうのサンパツ屋」 足立巻一
「こどもの詩のつくり方」 竹中郁
「きりん詩集」 きりん編
「ありと少年画家」 坂本遼
発刊から9カ月を経て、編集者の中にここまでの手応えと遣り甲斐が沸き立っていたことを考えると、当時子どもと大人の区別なく生活者を覆っていた精神飢餓感があぶり出されるように感じられてならない。ちなみに、これらの候補のうち何冊が実際に発行されたのかは今後の精読作業で明らかにしたい。
第2巻第1号:1949(昭和24)年1月号
表紙絵:小磯良平 挿画:須田剋太
表紙絵下には編集部による新年の挨拶「よい1949年をむかえましょう」
特選詩数:7 詩数:24 綴方:2

図1. (エディターズミュージアム所蔵)

図2. (エディターズミュージアム所蔵)

図3. (エディターズミュージアム所蔵)

図4. (エディターズミュージアム所蔵)

図5. (エディターズミュージアム所蔵)
※貴重な資料を破損することを避けるため、頁を半開した撮影のため画像が斜めになっています。

図6. (エディターズミュージアム所蔵)

図7. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.縦長サイズの『きりん』の最後を飾る表紙絵が、県立第二神戸中学校以来、竹中郁の
生涯の親友だった小磯良平の作品なのも、何かしら象徴的な印象を受ける。
図2.もくじの下に並んだ、『きりん』編集部の全員による新年の挨拶は哀切である。この
時点で発行継続の可否がどこまで見通されていたのか?は、もはや知る術もない。
図3.小学5年生の少女に、ここまで抽象的な思考と無駄をはぶいた描写が可能なのか?
真っ芯でその心象世界を捉えて表現した須田剋太の挿画と共に、驚嘆に値する。
図4.この一編も、児童詩誌『きりん』を語る際によく引用される作品である。子どもの心
の「ウソの無さ」を象徴するような、簡潔で朴訥な表現が忘れがたい印象を残す。
図5.「紙の版画とハリ紙えの作り方いついて」。この須田による文章は、当時画材が入手
しにくかった読者に向けて安価な材料で創作するための指南書として書かれている。
図6.この一文を読むと、竹中郁が『きりん』からどれほどインスパイア(霊感を与える)
されていたかが理解されるだろう。須田の挿画も独立した作品として素晴らしい。
図7.竹中の選による最後の作品紹介は、小学1年生による「くだもの」。マティスばりの
構図と色彩に驚く。この裏表紙をもって、縦長サイズの『きりん』は幕を閉じた。
~内容の紹介~
今号の画像の内容は、ぜひとも精読されることをお勧めしたい。
表紙裏のもくじ下に置かれた、編集メンバー全員の思いの籠められた文章は、一人ひとりの個性を如実に示した名文揃いである。井上の新聞社での東京への異動も淋しさを添える。
また、須田剋太による子どもに向けた創作論は、このあと『きりん』編集者としての浮田さんに影響を与えたと思われる点を含んだ力のある文章で、須田と『きりん』とのかかわりの深さを示す記念的な誌面だと考えられる。
巻末に置かれた竹中の訪問記も大変味わい深い。竹中は、東京理論社に『きりん』の編集発行が移管された後も長きにわたり詩の選評をライフワークとした。その原点を感じさせる記事である。訪問を写した写真は不鮮明だが、当日の教室の熱気を伝えるに充分である。
【宮尾の読後感】
こうして、発刊から10冊目の1月号を味読してみると、このあと5カ月にわたる休刊の期間、浮田さんと星さんがどんな思いで毎日を送っていたのか、が他人事ならない切迫感で私たちにも伝わって来ないだろうか?
足立巻一によれば、「活字を拾って『きりん通信』を出していた」というが、そうにでもしなければ淋しくていられなかった浮田さんたちの気持ちがよく分かる。
のちの現代美術作家浮田要三の創作にも、多大なる影響を与えたに違いない『きりん』の最初の一年は、こうして終わりを告げることとなった。
あとがき
シリーズの3回目をお届けする。先週7日から千葉県西船橋のギャラリーK&Oにおいて開催されている展覧会・浮田要三『自画像』では、1階展示室でオリジナルの『きりん』を手にとって鑑賞することが出来る(但し2冊のみ)。同時に、モニターに投影された画像で1953(昭和23)年4月号の『きりん』の全36ページを味わうことが出来る。
3階展示室には、浮田要三が旺盛なエネルギーで創作に没頭した最盛期の代表作が並ぶ。
あらためて、若き日に蓄積した『きりん』編集における誌面空間の構成という創作行為を起点とした唯一無二の作品世界が、圧倒的な力と熱量をもって我々に迫って来る。
(2023年10月15日)
※次回は10月下旬にお届けする予定である。5カ月のブランクを経て復刊された『きりん』では若き日の浮田要三による渾身のレイアウトが披瀝されることとなる。乞うご期待。
謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)
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