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『きりん』を読む・4

更新日:3月24日

                                       №4


はじめに

 第3回では、縦長サイズの『きりん』最後の2冊を取り上げて紹介した。

 連載第4回目となる今回では、『きりん』が休刊された1949(昭和24)年1月から5月までの5カ月間の意味を考察し、その後6月号として復刊を果たした『きりん』1冊に絞って、その内容をつまびらかにしたい。


 先ず紹介したいのは、足立巻一が主宰していた神戸の同人誌『天秤』38号である。

 ここで、同誌について詳細に触れることはできないが、足立の著作『親友記』(1984年新潮社刊)によれば、1950(昭和25)年4月に創刊され、1978(昭和53)年11月号をもって休刊した。表紙は、津高和一(洋画家・詩人)による素描が飾っている。

 



        『天秤』38号表紙    (エディターズミュージアム所蔵)

    

 

 この号で、資料再録6 ≪きりん≫ と題した特集が22頁から27頁まで計6頁にわたって組まれている。大阪時代から東京時代までを網羅した詳細な記録で、『きりん』の歴史全体を知る上で大変貴重な仕事である。その冒頭に、おそらくは足立から乞われたのであろう、井上靖が「『きりん』の頃」と題した回想記を寄せている。




         「きりん」の頃 ① (エディターズミュージアム所蔵)


         

          「きりん」の頃 ②  (エディターズミュージアム所蔵)



 特に注目すべきは、以下の一節であろう――

「私から狐がおちたのは二十三年の暮、大阪を引き上げて、東京へ移った時である。」

 奇しくも、ちょうど『きりん』が休刊に入ったのと同じ時期に重なっている。

 井上の回想記には、更にこうも綴られている――

「終戦後の奇妙な季節は二十三年をもって終りをつげ、二十四年から物情騒然たる正気の、本当の戦後は幕を開けたのである。」

 もちろん、『きりん』は井上一人のものではないので、この回想記をもってすべてを意味づけることは出来ないだろう。しかし、最早当時の事情を尋ねる相手も既に亡くなった現在この文章の背後に当時尾崎書房と『きりん』を取り巻いていた世情がさまざまに推測され、同時にその間の編集者や読者の気持ちも痛切であったことが伝わって来る。学徒出陣で戦火に倒れた青年たちの遺稿を集めた『きけわだつみのこえ』の出版がこの夏のことであった。

 


第2巻第2号:1949(昭和24)年6月号


表紙絵:井上覺造 挿画:井上覺造

もくじ上には須田剋太の扉絵「野球場」

特選詩数:7 詩数:50 綴方(日記):2    





         図1.        (エディターズミュージアム所蔵)



         図2.         (エディターズミュージアム所蔵)



         図3.         (エディターズミュージアム所蔵) 



         図4.         (エディターズミュージアム所蔵)



         図5.          (エディターズミュージアム所蔵) 



         図6.         (エディターズミュージアム所蔵)



         図7.         (エディターズミュージアム所蔵)



         図8.         (エディターズミュージアム所蔵)



         図9.          (エディターズミュージアム所蔵)



        図10.        (エディターズミュージアム所蔵)



        図11.        (エディターズミュージアム所蔵)



        図12.        (エディターズミュージアム所蔵) 




解説

図1.井上覺造は、のちに二期会常務理事も務めた日本洋画界の重鎮だが、芦屋市美術協会

   創立会員でもあった。この時期、誰の紹介で『きりん』にかかわったかは不明。

図2.この号から、表紙絵の裏面を全面使って企業広告が掲載されるようになる。第一回の

   広告内容は、先に引いた井上靖の文章にある「本当の戦後」を象徴するかのようだ。

図3.一目見て、この頁のレイアウトこそ編集者浮田要三のデビュー作であると直感した。

   前回紹介した須田のモノクロの画面を大胆にも緑色で印刷。上に『きりん』の題字。

   誌面右端に潔く引かれた太い朱色の縦線が全体に緊張感を漲らせて心憎い。

図4.「雅子」は「雅代」の誤り。五カ月を経て、就学前の7才の少女の作品が再び誌面に

   登場する。学籍が無いため、代りに当時の住所が記載されているのも特異である。

図5.この作品も、『きりん』を語る際に何度か引用される詩である。愛媛県妻鳥小学校の

   6年生の作品だが、井上の優れた挿画も相まって当時の世相が感じられる誌面。

図6.「全日本児童詩集作品募集」の広告。これは、もくじの末尾に記された「全日本児童

詩集刊行會編集」との名称と関係すると思われる。選考委員の顔ぶれにも注目。

図7.前前号、前号と2回にわたって掲載された、竹中郁の愛媛県上分小学校・妻鳥小学校

   訪問を経て、一行を迎えた小学生らから寄せられた竹中への便りが紹介されている。

図8.竹中郁が、自作の詩を『きりん』の誌面に載せるのは、これが初めてのことである。

   大胆不敵なレイアウトは間違いなく浮田要三の仕事。今後、詳細な研究を要する。

図9.竹中郁による山口雅代宅訪問記。ここには記されていないが、雅代さんによれば竹中

   は母親に向かって、娘の詩に大人が手を入れないよう、厳しく注意したという。

図10.この号から、あとがきを志賀英夫が担当。1946(昭和21)に井上靖も参加した

   同人誌『柵』の発刊者。著書に『戦前の詩誌・半世紀の年譜』『戦後詩誌の系譜』。

図11.裏表紙の裏面には、上下2段の企業広告がレイアウトされ、この号以降しばらく踏襲

   される。薬品会社の広告を誰がどんな伝手で取り付けたのか?今となっては不明。

図12.裏表紙を全面つかった歯磨き粉の広告。以降も、「子どもと健康」のテーマの周辺を

   扱った広告が散見される。イラストに『きりん』縁の画家が登場することもあった。



~内容の紹介~

 着任早々の志賀氏によるあとがきに、「この号に集まつた作品は、詩千編、綴方五十編という大変なげんこうの山」云々とあるのは決して見逃せない。五カ月の休刊期間の間にも、それまでに『きりん』が獲得した読者や寄稿者から継続的に作品が集まっていたことを如実に示す証言となっている。

 個人的に注目したいのは、何よりも若き浮田要三の面目躍如たるレイアウトの妙である。

殊に、竹中作品のテキストの上に水平と垂直の描線を重ねる大胆不敵なデザインには、のちの浮田作品の萌芽を観ることができる、と考えたい。この号以降、編集スタッフの数は減少したものと推察されるが、逆に浮田さんと星さんの自由な創意工夫が活かされる領域が格段に増えたとも想定し得る。そのような意味で、この『きりん』判は新たな出発であった。

 


【宮尾の読後感】

 この1冊からは、何度手に取っても特別なエネルギーが感じられるから不思議である。

 後年、浮田さんが現代美術作家として仕事を始めるまでにも20年弱という「潜伏期間」とも呼べるエネルギーを充填する時間があった。私には、この『きりん』創刊早々の五カ月という休刊期が、結果としてもたらしたものは決して小さくないように思われてならない。

 ともかくも、こうして『きりん』はよみがえった。この時期のことは、未だ綾子夫人にも長女の小﨑唯さんにも知られていない、若き日の青年浮田要三の人知れぬ情熱の記録として汲めども尽きない魅力に充ちた物語である。



あとがき

 シリーズの4回目をお届けする。どこか啓蒙的だった草創期の『きりん』の歴史が終わりを告げ、「アバンギャルドな精神」に充ちた『きりん』の時代が幕を開ける。あらためて、真にこれらの誌面を解読しようと思えば、当時の時代と社会を深く理解しなければならないことが痛感される。イスラエルとパレスチナの根深い遺恨の赤裸々な現実に直面しながら、私も自分自身の生活について思いを致す時間が増えた。

 没後10年という現代美術作家浮田要三の再評価の年も終盤を迎えた。ここに来て、思いがけないグッドニュースに触れることとなった。次回連載をお届けする頃には、正式に発表されることと思われる。乞うご期待。                                        

                            (2023年10月27日)


※次回は11月中旬に届けする予定。サイズが小さくなり、生れ変った『きりん』で、若き浮田さんの個性が遺憾なく発揮される。

謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。  ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)



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