1949(昭和24)年10月から12月までの3冊を取り上げる。『きりん』の読者が関東圏にも広がりを見せ、東京在住の詩人(教員)による選評も定着する。また、あとがきを浮田さんや星さんが担当する頻度も上る。小さな『きりん』版に模様替えして以来、編集スタイルの確立が見られ、当時の熱気が伝わって来るようだ。
第2巻第10号:1949(昭和24)年10月号
表紙絵:田井邦子(小学生) 挿画:早川良雄
とびら絵:今枝哲夫(小学生)
特選詩数:7 詩数:51 綴方:2
図1. (エディターズミュージアム所蔵)
図2. (エディターズミュージアム所蔵)
図3. (エディターズミュージアム所蔵)
図4. (エディターズミュージアム所蔵)
図5. (エディターズミュージアム所蔵)
図6. (エディターズミュージアム所蔵)
図7. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.京都市内の小学3年生女子の作品。描線、色彩、構図ともに、到底低学年の仕事とは
思えない。浮田さんによる、絵の色調に題字・号数の色を合わせたレイアウトの妙。
図2.石川県の幼稚園児のつぶやき。目の前でみみずののたうつ姿が目に浮かぶ。「数字」
への注目は田中敦子の初期作品とも通じ、『具体』の精神を先取りしたかのようだ。
図3.新聞記者も加えた豪華メンバー5者による座談会の書き起こし。こうした記事はこの
後にも誌面を飾るが、これが初めてである。今読んでも、実に本質的な議論である。
図4.三段目から次頁にわたる坂本の言葉は、そのまま彼の詩論を如実に示している。彼が
連載した読み物にも通底する「生活の尊重」は、当時の読者にも響いたことだろう。
図5.頁ごとに色味を換えたカットの配置も見逃せない。選ばれた小学生のドローイングの
完成度も見事。選者の発言の合間にそれを置く浮田さんの愉悦までが伝わって来る。
図6.欄外の足立による表紙絵への寸評は、これが最初で最後かと思われる。座談会末尾の
坂本の率直な発言も印象深い。本気で詩を論じる姿勢が『きりん』の神髄を示す。
図7.浮田さんがもっとも愛し、晩年まで引用した、『きりん』を代表する作品のひとつ。
作品・寸評・挿絵の三位一体。鉛筆の丸は、元所蔵主の灰谷健次郎氏が記したか?
~内容の紹介~
この号ではあとがきをはじめて星芳郎さんが書いている。「みなさんの作品は、毎號、月をおつてよくなつておりますがもう一度ふりかえつてみることも大切ではないかとおもい、今月はとくに『詩と生活』と『こどもの詩について』の特しゆう號としました。(星)」
誌面について特記すべき点。めずらしいことにホッチキス閉じの中央部の4頁が欠落していることと、今号は明らかに使用された紙が上質のもので、手に取っても厚みがあることを記しておく。社主の尾崎氏が四国の製紙業者から仕入れていたというが、当時の経済状態も反映されていると推察される。
【宮尾の読後感】
「詩と生活」と題された座談会は、何度読み返してもその内容の深遠さに驚嘆する。ここに記録された選評者の持っていた力量や個性が遺憾なく開陳されている点も実に興味深い。あらためて思うのは、こうした座談会を企て、その場に同席してその熱気を直に身に浴び、自らの手でそれを書き起こすという一連の営みが若き二人の編集者に与えた影響についてである。こうした、かかわる大人たちに応えるかのように、山口雅代さん(当時小学1年生)の「雨だれ」が巻末に置かれている。一冊一冊に籠められた、関係者の子どもへのまなざしの深さに触れて、現在、私たちは何を始めることが出来るだろうか?
第2巻第7※号:1949(昭和24)年11月号
表紙絵:岡庭知子(小学生) 挿画:池島勘治郎
とびら絵:渡邊竹司(小学生)
特選詩数:9 詩数:60 綴方:2
※前月号まで月の数に合わせて表記されて来た号数が、5カ月間の休刊期を反映した数字に修正されている。
図1. (エディターズミュージアム所蔵)
図2. (エディターズミュージアム所蔵)
図3. (エディターズミュージアム所蔵)
図4. (エディターズミュージアム所蔵)
図5. (エディターズミュージアム所蔵)
図6. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.神戸市内の小学3年生の作品。シンプルな構図と色彩にもセンスが感じられる。背後
に優れた指導者の存在があろう。今号では冊子に綴り紐のための穴が穿たれている。
図2.『きりん』という児童詩誌の特質を象徴する誌面。バケツ中のあゆとの距離の近さ、
細心の注意を保持し続けた緊張感。寸評も挿絵も作品の呼吸に見事に呼応している。
図3.冒頭に置かれた「尾崎、星、浮田」の三者による添え書きからも、前号記載の選者に
よる座談会の反響の大きさが推察される。子どもの詩1編を正面から取り上げた。
図4.竹中の「子どものもって生まれた素質」という言葉には、詩人が詩の作者の少年から
受けた刺激が率直に吐露されているように感じられる。実に濃密なまなざしである。
図5.浮田さんのあとがき。生前のあの独特の語り口、対象に向ける思いの深さ、ユーモア
の滲む言語感覚がよみがえる。若くしてすでに、浮田さんの思索は実に深かった。
図6.『きりん』の企業広告だけを集めても1冊のカタログが編集できるだろう。モロゾフ
もこの広告はご存知ないのでは?どうやってこんなことが実現出来たのだろうか?
~内容の紹介~
巻末に掲載から洩れた「佳作」の作者名と住所が一覧表になっているが、その欄外に選者の久米井氏が「熱心な學校」として鳥取県實木小学校を挙げている。「ぜんたいが詩に熱心な學校だと思いました。」図2.の作品「あゆ」も、同校の子どもによる1編。
もう一つ、見逃してならないのは、選ばれた詩の数が60作と、過去最多であることだ。前回・今回と紹介した、選者による合評会が成り立つだけの寄稿作品の重層性が確立されていたことが確認出来る。その勢いが、浮田さんによるあとがきにも如実に表れている。
【宮尾の読後感】
巻末の「きりん通信」には、「きりん東京編集部ができました」と記されている。「いままでのように竹中先生お一人では選ができかねるほど皆さんの詩があつまりますので、東京にもへんしゅうぶをつくり、東日本の皆さんの詩や作文をしどうしていただくことになりました」とある。理論社に移管されてからの後期『きりん』以前に、創刊2年目にして東京に編集部を構えるだけの読者層の獲得が果たされていたことは注目に値する。
私は、「『きりん』恐るべし!」との思いを、いよいよ深くしている。
第2巻第8号:1949(昭和24)年12月号
表紙絵:今西一成(小学生) 挿画:前田藤四郎
とびら絵:新宮晋(小学生)
特選詩数:9 詩数:59 綴方:2
図1. (エディターズミュージアム所蔵)
図2. (エディターズミュージアム所蔵)
図3. (エディターズミュージアム所蔵)
図4. (エディターズミュージアム所蔵)
図5. (エディターズミュージアム所蔵)
図6. (エディターズミュージアム所蔵)
図7. (エディターズミュージアム所蔵)
図8. (エディターズミュージアム所蔵)
図9. (エディターズミュージアム所蔵)
図10. (エディターズミュージアム所蔵)
解説
図1.子どもの作品とは思えない描写力に驚く。モデルは先生?それを黄色の地に置いて、
タイトルと号数を赤色の地に白で抜いたレイアウトの妙にも、やはりため息が出る。
図2.全面を使った出版予告にも、当時の編集部のエネルギーが漲る。『全日本児童詩集』
の編集作業の充実ぶりがうかがえる。ライ少女の手記は、タイトルが未決定である。
図3.頁を開くと、目を見張るように美しい構成の誌面が飛び込んで来た。2頁にわたって
夏の思い出が散文詩の形式で展開されている。特選詩でも、散文詩はこれが初めて。
図4.挿絵の前田藤四郎(1904ー1990)は明石市出身の版画家で、井上覚造、山崎
隆夫らと1924年に美術グルーブ「青猫社」を結成。潔い線の描写が印象的。
図5.昨年秋、小海町高原美術館での展覧会のエンディングセレモニーで記念のステージを
披露していただいた女性二人のデュオ・かりきりんが曲をつけて歌う詩のひとつ。
図6.これまであまり紹介出来なかったが、綴方教室の頁も質的に充実を見せている。当時
の子どもたちの生活がつぶさに描かれており、戦後史を語る貴重な資料とも言える。
図7.坂本の実直な選評の文章に人柄が滲み出ている。また、ここでも浮田さんの手による
子どもたちのカットを活かしたさり気ないレイアウトが、いつまでも心に残る。
図8.同じく、かりきりんの代表曲。京都は七條の小学3年生女子の詩にブルース調の曲が
付くとなまめかしさを増す。挿絵と文字の赤い色が相まって忘れがたい印象を残す。
図9.井上靖が1年ぶりに『きりん』に寄せた文章。懐かしさが滲むとともに、彼の誠実な
性格が現れた感想に同誌の1年の歴史が回想されている。表紙絵の説明文にも注目。
図10.この頃から、子どもを対象とした課外学習的テーマパークの企業広告が見え始める。
主催が新聞社、協賛が行政、広告主が南海電車。戦後日本の歩み出しを思わせる。
~内容の紹介~
この号でも、作家による読み物は竹中と井上の詩論2本と足立による「クリスマスカードの作り方」にとどまり、子どもによる作品が多数掲載されている。
冒頭の「貝がら」が計4頁にわたって印刷された冊子を手にした時の、浮田さんの手応えはいかばかりだったろうか?この頃、表紙裏の予告に示された『全日本児童詩集』の編集が同時進行でピッチを上げていたはずで、「寝ても覚めても『きりん』」といった状態だったことを想像しただけで微笑ましい。
【宮尾の読後感】
浮田さんが『きりん』を語る際によく使われた「グレードの高さ」という言葉の意味が、今回紹介した3冊だけをとっても明確に理解されよう。
ここで戦後日本の歴史を振り返っておきたい。1949年と言えば、日本という国自体がまだ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制下に置かれていた頃である。同年の流行歌が「青い山脈」であった。私の世代は、ぎりぎり懐メロとしてこの歌の醸す雰囲気を感じ取ることが出来るのだが、「そうか、そんな時代の空気の中に生まれたんだ」と考えるとこの3冊の味わいも変わってくるように思う。 あとがき
シリーズの6回目をお届けする。イスラエルとパレスチナの争いは束の間の戦闘休止状態に入っている。生きている内に、その後のために子どもの体にアイデンティティが記される時代が来た現在、戦争で身内を亡くした子どもたちの言葉を集めた『きりん』の意味が再び見直されなければなるまい。
つい先日、前回ご案内した「『美術館で作品をみる』を考えてみる」展を浮田綾子夫人、小﨑唯さん、猿澤恵子さん(オモンちゃん)とご一緒に鑑賞した。
安藤忠雄設計による大きな弧を描いた第一展示室の広大な壁面に、空間を置いて浮田さんの作品4点のみが展示されていた。おそらく、今後もこれ以上に「作品そのものに聴いた」展示は成り立ちにくいのではなかろうか?そう思わせるほどに、緊張感の漲る豊穣な展示が実現された。
壁面の前に佇みながら、この数年間にわたる浮田要三と『きりん』とに魅せられた時間の重さを身に沁みて感じていた。
(2023年11月29日)
※次回は12月中旬に届けする予定。次回記事には「縄跳びをする少女」以来の、吉原治良による挿絵とエッセイが登場する。実に、『具体美術協会』設立の5年前のことである。
謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。 ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)
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