『日本童詩研究会』の頃

 今回、「浮田要三と『きりん』の世界」展に向けて、大阪府茨木市在住の浮田綾子夫人にインタビューをさせていただくことができた。綾子さんは、『きりん』を売り歩いていた頃の浮田さんの姿を知るほとんど唯一人の人と言っても過言ではないだろう。

 インタビューの内容は、展覧会までに活字化する予定だが、以下には『きりん』の編集の最初期の様子に触れた綾子さんの語りと、長年に亘り『きりん』に深くかかわり続けた足立巻一氏が『思想の科学』の寄せた文章の抜粋を並べてご紹介したい。

 児童詩誌『きりん』が、名も無い二名の青年によって人知れず編集され、印刷されていた当時を想像しながら読むと、あらためてこの営為が一人でも多くの日本人に紹介され、その深い意味を受け止め直す時が到来したことを痛感する。


浮田:その当時、星さんという方がいらしてね。二人で『きりん』をやっておりましてね。

掘っ立て小屋みたいなところでね。

宮尾:はい。星芳郎さんですね。私も、『思想の科学』という雑誌で写真を拝見しました。バラック小屋みたいな。あそこで、浮田さん夫妻と星さん夫妻が……。

浮田:はい。やってましたでしょ、『きりん』を。あの小屋は、浮田さんの実家と表にもう一件あって、その家と家をつなげたんですね。その間に小屋を作って、そこで『きりん』を編集してたんです。その小屋の中に活版印刷の版がいっぱい置いてあったのを覚えてます。それを一字ずつ、こう取ってはね、初めはしていたらしいです。それはだいぶ時間がかかっていたんだと思いますがね。それから、袋を作って、送る袋も全部家で作っていたんです。そういう仕事は家族でやっていましたね。経済的には、まったく赤字でしたけどね。


(『きりん』の)発行所は大阪市西区本田町2の44、日本童詩研究会。

 この『日本童詩研究会』という看板はいささか堂々としすぎていて、ハッタリの感じがないでもない。事実、編集兼発行所はその名に比べてあまりにも小さすぎ、はじめての人は絶対にといってもいいほどその所在を探しだせない。振替口座はあっても電話は一本もない。

大阪の古い遊廓の一つ、松島新地と電車通り一つへだてた東側の、二坪のバラックが発行所だ。それも電球交換所の裏庭に立てられているので、道路にも面しておらず看板をかける場所もない。だから『きりん』をたよってわざわざやってきた先生や子どもはいつもマゴマゴするという。おまけに付近一帯は戦災で焼けたままになっているところが多く、雑草がほこりをかぶって茂り、きわめて殺風景である。

 バラックはトタンぶき、板壁で物置小屋よりも貧相で、内部も板敷、折りたたみ式手製の寝台兼机が空間の半分以上を占め、板壁には活字ケースと手刷印刷機がもたせかけてある。こんなありさまなので『きりん』は発行所の貧弱な点でも全国有数といえるかもしれないが、そこはその上、発行所であると同時に編集兼発行人星芳郎さん夫妻の住宅でもある。窓も一つで通風がわるく、床が低いので湿気がひどい。

           足立巻一「地方文化の渦・大阪〜童謡雑誌『きりん』の歩みから」

                     『思想の科学』(1954年11月発行、第7号)

                             (2022年5月16日) 


「朴訥(ぼくとつ)として、要らんことは絶対言わない人でした。仕事のことについては、

 いつも話し合っていましたね。」(当時を振り返る浮田綾子夫人の語りから)




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