「浮田要三と『きりん』の世界」展に向けて、私たちの準備は着々と進んでいる。
一人娘の小崎唯さんと電話で、あるいは直接お会いして、具体的に相談することがある。何回かやり取りする内に、私は彼女の話し方や立ち居振る舞いの中に、ご尊父の面影を感じることが多くなった。何よりも親譲りだと感じるのは、その「判断の速さ」である。
3月の中旬に大阪茨木市のご自宅を訪問してインタビューを取らせていただいた際には、95歳を迎えられたお母様(浮田綾子夫人)から、浮田さんが芦屋市主催による「童美展」(公募による児童の作品展)の審査員をその晩年まで続けられたことをお聴きした。
「長い竹の棒みたいなのを持って、もう、パッパッパッと、指しながら『これと、これと、これ!』と床に置かれた子どもたちの画を選ぶんですわ」
浮田さんの審美眼の孕むスピード感が伝わって来る。このようにして、十数年に亘る児童詩誌『きりん』の表紙画の選択が続けられたのにちがいない。
そして、この的を逃さない感性の確かさを、吉原治良(注1)も認めたのだろう。
浮田さんご自身が『ラジオ深夜便(2008年12月20日早朝放送)』(注2)で熱く語られているように、若き浮田青年が尾崎書房社主の指示を受けて芦屋の自宅に画家を訪ねたのは1948年。まだ世の中全体が戦後の焼け野原だった時代のことだ。再三に亘って、予定の期限を過ぎても画は仕上がらず、それが数回目の訪問だった。
午前10時頃、訪れた浮田青年の前に差し出されたのは、描いたばかりで、まだ乾かずに濡れたままの油絵『縄跳びをする少女』(注3)であった、という。
この時に受けた感動が、その後の浮田要三の生涯を決定した。
学校の教員でも何でもない、文学好きの青年が、このあと日本の教育史にも類いまれなる児童詩誌『きりん』の歩みを担うこととなった。
冒頭で触れた、唯さんの「判断の速さ」に戻ろう。
学芸員の中嶋さんによる展示作品リストの素案を盟友おもんちゃん(猿澤恵子さん注4)と確認してくださったが、お二人による厳選により、大幅に作品数は絞られた。
「おもんちゃんと私の意見はほとんど同じでしたわ」という電話の声を聴きながら、私は『これぞ、正しく浮田要三の面目躍如!』と膝を打った。
その彼女から『最近知人から返却された父の作品をお譲りしたい』との申し出を受けた。それは、今回のご尊父の画業を再評価する回顧展を企画する私たちへの謝意であった。
きっと、今回のような出会いの生む“火花”が、かつて浮田要三と『きりん』の子どもたちとを結び付けていたのにちがいない。
この作品『骨折したイナビカリ』は、今、私たちの法人事務所の壁に飾られている。
秋の展覧会には、小海町高原美術館の壁面で、皆さんにもぜひご覧いただきたい。
2022年4月20日
注1 吉原治良(1905-1972)は抽象画家で、若き日の浮田要三も所属した具体美術協会
創設者。
注2 『世界で一番美しい雑誌を』と題された浮田氏へのインタビュー。現在ご遺族から
の許可を得て文字起こし中。
注3 草創期の『きりん』の表紙を飾った吉原治良による油彩画。展覧会では、現存する
オリジナル冊子を展示予定。
注4 浮田さんの盟友だった具体美術協会の画家・嶋本昭三(1928-2013)の直弟子。
『骨折したイナビカリ』(1998)
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