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すぐれた批評家としての子ども

さむらいは おしっこをしません

うんこもしません

4にんしんで

3にんのこりました


もり たいら(小1)児童詩誌「きりん」に寄せられた詩



抜粋


渡辺:最終的にたどりつく問題は方法論だと思うんですね。真実もたどりつくための方法をどのようにきりひらくか。結局どのような方法に依拠して、方法を使って、方法の指定する立場に立って、真実にむかって肉薄していくのかと。その姿勢にこそ鍵があるのではないでしょうか。


小宮山:そう。ぼくはそこで、今や僕の本職である子どもの詩をつかって例を挙げましょう。1年生のもり・たいら君という少年が、今から30年以上も昔に、こういう詩を「きりん」の編集部におくってきて、その編集部でめぐりあって、みんなでびっくりしたことがある。その詩がなんだというと、


さむらいは おしっこをしません

うんこもしません

4にんしんで

3にんのこりました


それを黒澤明におくってやったの。「いや、まいったな」と言ってね。結局『七人の侍』に対して、これほど優れた批評はないんだ。だからぼくは活字の持つ威力はそれだと思う。それからフィクションというものは、詩という形で、そういう形で形成されてみると、動かざる真実をフィクションで書くことができるという力を子どものうちからそういうふうに備えている、人間が。

人間の持っている潜在力でもって見抜くと、一年生の子どもが「さむらいは おしっこをしません うんこもしません 4にんしんで 3にんのこりました」そういう批評の力がある。詩の力である。フィクションの力である。こういうものを活用するためにに僕は活字でもって、詩や芸術に近づいて、それを媒介にして人間の持っている能力を大事にしなくっちゃいけない。詩人や小説家が書いている世界からどれだけのものを吸収するかということは社会科学にとって、僕は今非常に大事になっていると思う。そういうことをあなたに申し上げると、あなたはそれを社会科学的に理解してくれると思う。


渡辺:科学はなにができるかという絶望感、失望感のなかで社会科学者は生きています。自分のやってきたことが常に現実によって裏切られるという状況のなかで、それでも社会科学には、あるいは科学には未来があるんだと、続けていく。その時に、学生や読者からこういう鋭い問いかけがなされるわけです。「じゃ、先生、そんなことをやっていったいどんな意味があるんだ、所詮空言じゃないか、所詮フィクションじゃないか」、それに対して「否、そうじゃないんだ」と言い返す自信、その自信を与えてくれる言葉を今聞いた気がしました。


もう一つ、思い出すのは、児童詩誌「きりん」の詩の選定者 竹中郁さんが 山口雅代さん(「きりん」の常連さん 幼稚園のころから素晴らしい詩を投稿・身体障害のあるからだなのでお母さんが言葉を書き留めて送付していた)のお母さんに言ったことば。

「この子を詩人にしようなどおもわず、このまま批評精神のあるおとなに育ててください」


きりんの子どもは今85歳を過ぎて生きておられる。子どもをおとなが大事にした時代があった。批評精神を育てない焼け野原2025年夏に再読。


よい火をつながなければと思う。


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