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執筆者の写真西 幸代

そらくんのことをずっと考えている 

「浮田要三と『きりん』の世界」

かりきりんさんのLIVEのときの起きたこと、

時間と空間をずっと振り返っています。



そらくんたちは食事を終えて会場に来ました。

もう会場はいっぱい。

後ろのほうに座りました。

ちょっとちいさめのスツールにすわり、

お母さんやジョブサポーターさんとすわりました。



とちゅうのおしっこにも退場しやすいだいじょうぶなばしょ。


そらくんは中盤過ぎたとき、

かりきりんの赤いぴあのの下村ようこさんのところへ

すすっと。




下村さんは「ありがとう⤴」と声かけしていました。

そらくんが下村さんのありがとうにはんのうしたのかどうかはわからないけど、

そらくんはまた来た道を引き返して、

もとあたりの場所~後ろの空間を回りながら残り時間を過ごしていた。


会場にいたひとは

そらくんが会場の後ろから現れて

すこしかりきりんの居る最前列で過ごしたのを

あたたく見ていたように感じた。



あの自由さをうらやましく思った、

あのときのゆたかなふくよかな空気を歓迎していた。

(コンサート終了後に感想を多くの人から寄せていただいた)


計画通りの一糸乱れないコンサートしか触れてこなかった人は

あの自由さを矯正した方がいいと思ったかもしれないけれども

あの場でかれの「圧倒的な自由さ」に太刀打ちでなかったと思う。


最終日、宮尾さんの166冊きりん絵巻のお話の「チャンス・フォーム」とつながる。


そらくんのあるいた軌跡と重なる。


周囲に忖度はしない、

じぶんの内側から出てくるコトだけで。


ひとりひとりの社会的地位や肩書から自由、

社会や学校の価値基準からほんとうに自由なのである。


10月30日、関西大学の平井章一先生のお話とつながる。


浮田要三さんは

浮田要三の絵ということさえ離れて

ただ「もの」として存在する、

を目指しておられた。


ひとつ一つが「個」として独立して強い。






そらくんたちはそれを易易とこなしていきているのかもしれない。

絵が「個」としてある。

赤いぴあのが「個」としてある。

人間が「個」としてある。


すべてが同等に生きることができる「個」なのかもしれない。




その「個」のしごとは

人間のことや自分のことを考えるに欠かせない。


お母さんたちが混ざることを躊躇する社会は貧しい。

たのしみながら学びながら「個」を存分に生きる社会へいっぽいっぽ。

浅川さんたちのしごとはちいさくておおきい。




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