1.
この夏、小海町高原美術館を会場に開催された展覧会「浮田要三と『きりん』の世界」に一般社団法人ぷれジョブとして企画協力させていただきました。
タイトルのとおり、今回の展覧会は現代美術作家浮田要三の画業を展観するだけでなく、彼が児童詩誌『きりん』といかに深くかかわり続けたかを探り当てることを重視しました。
いったい、どのような情熱があったら、14年余にわたる長い年月、まったく赤字続きの困窮状態に置かれながら月刊誌を編集し、発行し、販売するという仕事を続けることが可能だったのでしょうか?
ここで、以前にもご紹介した浮田さん自身による当時の逸話を引いてみます。
その日の画材は、安物の薄手ボール紙と水彩絵の具でありました。大方の子どもも、単に絵の具で描画するのではなく、水彩絵の具でぬれた処を指でこすって、モロモロの状態にして、それに絵の具をぬって絵の具がボヤけて、面白い調子ができて、意想外の作品があちこちで生まれはじめました。しかし金原さんは、そのボール紙をどっぷりとぜんぶ水につけてグニャグニャにしてから、タテ、ヨコに5センチ程に折り曲げて、それをひろげて市松模様にして、1つおきの四角に指でこすり上げてモロモロの面をつくって、その面にだけ薄い墨汁を塗って作品をつくりあげました。できあがった時の作品は水でボトボトの状態でしたが、金原さんはそんなことには気をつかわず、そのまま机の上にべたっと置くのです。そして、だまって見ているだけです。ここで面白いと思ったことは、いきなりボール紙を水に全部つけてボトボトにすることと、でき上った時も、ぬれたそのままの状態で、ほとんど無表情でいたことで、金原さんの心の強さみたいなものが垣間見えたようで、とても胸を打たれました。
今は、ボクも自分の感性に基づいて、作品を制作している身分ですが、本当にこの金原さんの制作姿勢にあやかりたいと、ひとえに切望するものです。
ここに顕れている、人間浮田要三の子どもとの向き合い方からは、子どもと大人との分け隔てを軽やかに超えた、静かな存在の共振が伝わって来ます。
専門的な美術教育を受けたのでも、教員養成を経たのでもない一人の復員兵だった若き日の浮田要三には、誰の真似でもない彼独自の「生の哲学」がありました。おそらくそこから次のような子育て観が自然に生まれたと考えられます。
父は作品の一つも作ったことのない私に、「唯は、居ることが作品みたいなもんやから、そんでよろしい!」と言ったことがあります。(浮田さんの長女・小﨑唯さんの証言)
これは、父親が娘にかける情愛でなく、浮田要三という思索者の哲理が発した言葉です。
浮田さんは、その若き日に『具体美術協会』を設立した吉原治良と親しく交わりました。
有名な吉原の『具体美術宣言』には、こう書かれています——
具體美術に於いては人間精神と物質とが對立したまゝ、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。
吉原の影響は、長く深くその後の浮田さんの人生を貫いて働き続けたように思われます。
私には、浮田さんが文章の中で自身を示す第一人称を「ボク」と表記されたことにも独特のこだわりが感じられてなりません。何者によっても冒されることの無い「自我」の主体としての「ボク」は、間違いなく娘の内にも同等な「ワタシ」を認めていたはずです。
このように考えると、全巻166冊に及ぶ『きりん』の表紙絵を毎月子どもたちの描いた絵の中から選び続けるという行為もまた、行商先の学校で出会った数知れない子どもたちに対する敬意と共感の表白であったと言えるでしょう。
2.
展覧会を記念したリーフレットの冒頭に置かれた序文の中で、一般社団法人ぷれジョブと浮田さんとの出会いについて、長女の小﨑唯さんが書いておられます。
2019年10月吉日に、見覚えのない「宮尾彰」というお名前の方から、突然のメールが届きました。内容は、「ぷれジョブ」(障がいのある子どもが、自分の生活する地域にある店や企業を借りて、働く体験をする事をきっかけに、地域社会を、多様性を認め合える寛容な居場所に変えていこうという趣旨の活動をしている)が、一般社団法人を取得することができ、その活動を拡げる際に配る名刺に、「浮田要三」の作品を使わせてほしい、というものでした。
同じリーフレットの終盤に、ぷれジョブの考案者で法人代表理事でもある西幸代による「ともかちゃんのこと」を挿入させていただきました。ともかちゃんとの出会いが無ければ、西代表が「ぷれジョブ」というしくみを生み出すことはありませんでした。
彼女は生れてから、重心病棟のナースセンター隣のベッドから病院外へ出たことがなく、教師とベッドサイドで学習する子どもだった。体は扁平になり硬縮がすすみ、自力で動かせる所はなかったが、呼吸するとき全身を震わせて思いを伝える手段をもっていた。気管切開していたので声帯を使った音を介するコミュニケーションはなかったが、私は彼女のそばにいくのが毎日楽しくてしかたなかった。私と彼女はいつもお互いのやりとりを楽しんでいたからだ。彼女は、私の気配を感じると全身でうれしさを表現し、私を待っていたとうまく伝えた。
それまで理科専科の中学校教師として成績向上に指導力を発揮していた西代表にとって、彼女との出会いは自分がそれまで持っていた価値観を根底から揺るがし、「教える」ことの意味を問い直す契機となりました。
自分に『ものを考えるジョブ』を教えてくれたこの少女が、山の上の隔離病棟で人知れずその短い生涯を終えたとき、西代表は『ともかちゃんが確かにそこに生きていたこと、自分が彼女とかかわったことを、いつの日か必ず社会に伝えなくてはならない。』と誓います。
大規模中学校に復帰した後も、やはり障がいのある子どもたちとかかわりますが、上述の経験が日々の教育実践に影響を及ぼし、やがて『週に1回1時間だけ、障がいのある子どもが自分の生活圏で企業や住民の協力を得ながらはたらく経験を持つ』というぷれジョブ®のしくみを考案します。
時代は、障がい者の法定雇用率が上げられ、障がい者を対象とした就労支援が国策として強化される機運に満ちていました。そこで、彼女の許を多種多様な立場の人間が訪れるようになり、「ぷれジョブ」は一つのムーヴメント(運動)として全国に波及して行きます。
考案者個人にとっては、あくまで「圧倒的な存在感で自身に揺さぶりをかけた少女」との出会いが基底にあっての活動でしたが、西代表の講演や推薦を受けて各地で活動を興した組織の中には、障がいのある子どものスキルアップや就職への誘導という功利的な側面に傾いてしまう事例も多く、当初からこの活動に籠められた理念の理解と継承は容易に進むことのないまま今日を迎えています。
今世紀初頭に障がい福祉がサービスとして扱われる時代に入ると、障がいのある我が子を持つ保護者たちは、それまで自身が晒され続けた社会的に不合理な圧力から自由になり、自分が保護しなくてはならないという義務感や負担感を軽減され、変容した我が子の立派な姿を周囲に誇ることの悦びを獲得し始めました。
こうした流れの中で、地域で続けられる「ぷれジョブ」の活動自体が、本来子どもが一人残らずそこに所属すべき母集団(クラス、学校、地域社会など)から、特別に配慮された器(特別支援学級、特別支援学校、障がい福祉サービス、医療機関など)へと分け隔てられることになり、やがては本人や家族が望んでも元の組織には戻れない社会構造(システム)の中に取り込まれ、そのコマの一つになってしまう危険があります。
逆説的な表現になりますが、考案者にとっては、「ぷれジョブ」の活動自体が地域社会に浸透して見えなくなり、終には消失することこそが理想なのです。
3.
ぷれジョブ®と『きりん』の関係をご理解いただくために、再度「思いがけないかたち」(展覧会の会期終了に当っての前回ブログを参照)について触れたいと思います。
「思いがけないかたち」は、これまで何度も引用して来た加藤瑞穂さんの文章に出てくる
とても大切なキーワードです。『浮田要三の仕事』巻末の「吉原治良と浮田要三の接点」と題された論文で、加藤さんはハーバード・リードの文章を紹介しておられます。
本書(『芸術と社会』1937)でリードは、「美術の起源」という一節で一歳の子どもが紙に鉛筆で描いたストロークとスクラッチの中に、子ども自身が「チャンス・フォーム(chance form)」、すなわち思いがけないかたちを見つけるだろうと記している。
「チャンス・フォーム(思いがけないかたち)」とは、一歳の幼児が意識以前の世界で、自由に描いた鉛筆の線を指しますが、とても興味深いのは、幼児自身がそれを「見つける」瞬間に覚えるであろう純真な驚きです。
「ボク」あるいは「ワタシ」を離れて独立した「モノ」として幼児の前に立ち顕れる線。(あるいは、「幼児に『ボク』や『ワタシ』は未だ無い」と指摘されるかも知れませんが、仮にそうだとすれば、『自我』以前にチャンス・フォーム(思いがけないかたち)があるということになります)この原初的な発見のもたらす悦びと興奮から、浮田さんは生涯離れられなかったのでは?と私には思われます。なぜなら、そこには「ウソが無い」からです。
ここで、ぷれジョブが生み出される機縁となったともかちゃんを思い出してください。
かけがえのない体を具えてこの世に生を享けた彼女こそ、『存在が描く生の軌跡としてのチャンス・フォーム』を生きた人間でした。浮田要三と西幸代をとらえて放さなかったのはこの「人間の内なるチャンス・フォーム」の魅力ではなかったでしょうか。
こどもの本質と、大人=人間としての本質が結ばれるなかでうまれた行為、その結果としてのこどもの作品。 『美育―創造と継承』(1999芦屋市立美術博物館)
この浮田さんの言葉も、「子どもと大人が対等な関係で向き合う文化」がもたらす悦びを伝えています。これこそが、ぷれジョブ®と『きりん』からの、私たちへの贈物なのです。
ここで、展覧会のクロージングセレモニー「かりきりんライヴ」の会場風景を思い出しておきましょう。アトリエUKITAに集い、最晩年の浮田さんに親しく接しておられたのは「障がい」のある人たちでした。「浮田さんには『分け隔て』というものが皆無だった」と展覧会に来館された何人もの方から直接お聞きしました。一期一会のライヴ会場には、実に思いがけないかたちで、社会的な地位や属性を軽やかに超えたさまざまな「個人」が混在し真の意味でインクルーシブ(包摂的)な『場』を共に創り出していました。
4.
2012年4月1日、私は上田駅前にある小宮山量平氏の私設博物館Editor's Museumを訪ねました。そして、そこで『休刊の辞』という彼の手に成る檄文に触れたのです。
『きりん』は日本の子供の心をそのままあらわす場です。そういう場を喪失している日本そのものへの怒りを怒っているのが、私の沈黙と休刊です。私の考える『きりん』そのものの続刊は、一ぺん、このむごたらしい「死刑」の確認の上に立って、別の意味で始められるべきでしょう。( 中略 )新しい『きりん』を、児童詩があるから始めるのでなく、それが無いから始める立場で、始めたいと思います。
足立巻一著『詩のアルバム 童詩誌『きりん』の仲間たち』(1979年改定版)の巻末に置かれたこの言葉の印象は深く心に残りました。その場で、荒井きぬ枝さんから示された黒い一冊の『きりんの絵本』を開き、「浮田要三と『きりん』の世界」に出会ったのです。そして私は、奥付に記された茨木市在住の未知の浮田要三氏宛にお手紙を書きました。
この出来事の数カ月前、2011年の11月に、私はぷれジョブ考案者の西代表を佐久の地に招いて講演会を開いたばかりでした。こうして、ぷれジョブと『きりん』がつながってから、今回の展覧会の開催に至るまで、実に10年の歳月が流れました。
当初、私は「『きりん』を現在に蘇らせる活動がぷれジョブなのではないか?」と考えていました。今、展覧会を終えて「ぷれジョブの理念が体を具えた姿こそ『きりん』なのだ」と考えています。言い換えれば、『きりん』は私たちにとって「過去ならぬ未来」に属するチャンス・フォーム(思いがけないかたち)そのものなのです。
(2022年12月2日)
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