文通が始まった当初から、私は浮田さんを自分の住む小諸か上田に招いて、『きりん』についてお話をお聴きする機会を創りたいと申し出ていた。手元に残る浮田さんからの書簡によれば、この年(2012年)の秋から冬にかけてお呼びする計画を立てたものの、浮田さんが体調を崩されて果たせなかった。
そして、明けて2013年の初頭に、私は現在一般社団法人ぷれジョブの代表理事である西幸代さんとご一緒して大阪府東成区にあった浮田さんの仕事場『アトリエUKITA』を訪問する機会に恵まれた。
朝、早めに到着した私たちは、喫茶店のモーニングで時間を調整した。そして約束した時間の少し前に地下鉄今里筋線の今里駅へと歩いて向かった。通勤時間の人込みの中に、自転車のハンドルを手にかけたおじさんが地下鉄の出入り口の方を向いてぽつねんと立っていた。作業ズボンと自転車のあちこちにペンキがついたまま。私たちは『あっ、ウキタさんだ!』と瞬時に悟った。
おそらく、その時浮田さんから『あんたたち、なんでそっちから現れるんや?』とあの忘れがたい大声で驚かれたのに違いない。ともかく、私たちはアトリエに向かって歩き出した。
浮田さんは自転車を引きながら、夢中になって話しかけて来られる。やがて話にどんどん熱が入って、さほど広くない舗道脇の植木に歩いている私の身体が押されてゆくのに気づくと、浮田さんはちょっと身を引かれる。そしてまた、『そうかそうか!』と子どものような歓声を上げながら浮田さんが自転車と一緒に私ににじり寄って来るのだった。
広い幹線道路を直角に右折してしばらく歩いた先に、アトリエUKITAはあった。
なんと自然で、飾りの無い、美しい姿だろうか!『きりん』の編集発行の仕事をきっぱりと辞めてから袋工場の社長さんだった浮田さんの仕事場は、街中にいきなり現れた倉庫のような建物だった。真っ赤なペンキで塗られたシャッターの戸袋に見事に潔いレタリングで『An Atelier UKITA』と記されている。灰色のセメントの壁面にペンキをローラーで塗った跡なのか、昔黒板消しを学校の壁で叩いてチョークの色が重なって残る模様が早や作品のように見える。
誰でも好きな時間に出入りできるように鍵を掛けていないという出入口は、厚手で半透明のビニールカーテンで仕切られたのみ。一歩内側に踏み込んだ瞬間、訳も分からない圧倒的な色彩とカタチの世界が眼前に展開されている。浮田さんはスタスタと手前の一角を占める事務室?へと私たちを案内される。
所狭しと、机や床や壁に造りかけの作品や大小さまざまな道具類が並んでいる。いったいどこから何が取り出されるのか、皆目分からない。『わしは珈琲を淹れるのだけは上手いんだ!』と、さっそく手際良く支度をされる。
それから、どれくらい時間が経ったのだろうか?洪水のような勢いで、一気呵成に浮田さんの口から『きりん』の歴史が語り出された。『あんた、よう調べとるなぁ!』と『ボクは、そう思いますねぇ~』の二語は、今でも耳の奥に残っている。
ひとしきり話したあと、浮田さんは寿司屋に連れて行く、と言われる。もう、昼はとうに過ぎていた。「すぐ近くだから」と歩き始めると、真っすぐ先の店の戸が空いて、主がのれんをしまおうとしている。突然、浮田さんは『お~い!待ってぇな!昼に行く言うといたやろが!』と大声で叫びながら走り出す。
お店の中にも、浮田さんとお弟子さんの作品がいくつも飾られていた。ネタの大きな、とても美味しいお寿司をご馳走になった。浮田さんはこのお店に場を移しても、嬉しそうに語り続けた。
アトリエUKITAは、まぎれもなく、万人に開かれた『アバンギャルドな異次元空間』だった。
※写真は、西さんがご逝去の後お弟子さん方が開かれたオープンギャラリーの際に撮影。
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