9月17日から始まった展覧会「浮田要三と『きりん』の世界」も、早いもので会期半ばを過ぎました。心中名残惜しくもありますが、残すところ、あと一月弱です。
今回、私は初めて美術館の展覧会に企画協力させていただきました。そして、展覧会の「作品」が単なる「資料」ではなく「具体的に生きているモノ」であると知らされました。
期せずして、展覧会の会期中に、展示に追加されるべき「新資料」が発見されたのです。
私が、10月3日に書いたブログ「展示のご紹介~吉原治良『縄跳びをする少女』~」を読まれた大阪在住の京谷裕彰氏から、当日晩のうちに、大変な知らせが届きました――、
「大阪中之島美術館の吉原治良旧蔵資料の書簡群のなかに、浮田さんから吉原さんに宛てた葉書が残っています」と。
京谷氏は詩・文芸・美術と幅広い領域を対象とした批評家で、晩年の浮田さんをアトリエに訪ねて親交を持たれた方です。今回、私はリーフレットの編集過程で氏の撮影されたアトリエUKITAの全景写真の転載を了承いただいたのがご縁で知己を得たばかりでした。
さっそく、氏のご紹介により、大阪中之島美術館アーキビストの松山ひとみ氏にハガキの所在を照会し、迅速なご手配のおかげで、データではあるものの、ハガキ4点と封書1点の存在が判明しました。資料の詳細を、今この文章でつまびらかにする準備はありませんが、一つだけ、ぜひともご紹介させていただきたいことがあります。
1951(昭和26)年7月15日付のハガキの中に、以下の一節が見られます。
何時ぞや、お忙しい中を無理お願いしました玉稿、月、月、掲載出来なくなり、不本意に思っております。(九月号に使わしていただく積りです)
この「玉稿」とは『きりん』第4巻10号に掲載された吉原の「らくがきとチュリンガ石」と題された一文かと思われます。ハガキでは「九月号」と書かれていますが、何らかの事情により、結果的に一号遅れる形で10月号に掲載されたようです。
「らくがきとチュリンガ石」については、初日のオープニングセレモニーで講演していただいた加藤瑞穂先生が、『浮田要三の仕事』の巻末に寄せた論文で引用されています。
これは、未だ『具体』を立ち上げる前に、吉原が『きりん』の誌面を借りて自らの芸術論を開陳している、非常に示唆的な文章なのです。
私は、前述の文章に『小説のような、二人の人間の生涯が交叉した奇跡の出来事』と書きましたが、なんだか、空の上で『きりん』談義を続けているお二人から、私たちにご褒美をいただけたようで、胸が熱くなりました。
ここに、展示前に私が撮影したその文章を貼らせていただきますので、どうぞじっくりとお読みください。読めば読むほどに、味わい深い文章です。
『全然、手抜きはなかった』という浮田さんの言葉通り、当時、吉原が人間として対等な敬意を子どもに向けてこの文章を書いたことが、行間から伝わって来ます。
尚、浮田さんのハガキは、ぜひとも展覧会場の展示をご覧いただきたいと思います。
(2022年10月19日)
『きりん』第4巻10号(1951年10月)28~29頁
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