敗戦直後の1948(昭和23)年の2月に発刊された児童詩誌『きりん』を、1冊ずつ読む作業を始めて、4か月が過ぎた。その中から感じたことの一つを書いてみたい。
最初の10冊は、尾崎書房から出た縦長のB5版で、表紙絵を井上靖の依頼を受けたプロの画家たちが描いている。冊子の体裁からは、どこか「啓蒙的」な匂いも漂う。
はじめのうちは、関西地域の学校現場からの詩や作文の寄稿はまだ少ない。『きりん』が未だ世に知られていないのだから無理なからぬことだ。それもあってか、井上靖、竹中郁、坂本遼、足立巻一といった当時第一線で活躍していた詩人たちによる読者向けの物語の頁が目立つ。その内容はストレートで、相手を「子どもだから」とあなどることのない真剣勝負の意気に溢れている。
そうした中で、坂本遼の寄せている初期の文章には、当時の詩人の生活が垣間見えるかのような、具体的な出来事に取材したと推測される時代の空気が濃厚に感じられる。
坂本が最初に『きりん』に寄せたのは「ありと少年画家」という6頁にわたる物語だ。(1948(昭和23)年 第1巻4・5月合併号)
(エデイターズミュージアム所蔵)
戦後の闇市のような場末の露天商で、新聞記者とおぼしき語り手は粗末な紙に包まれた飴を買い求める。彼は、その包み紙の内側に薄紙に描かれたありの絵を見つける。緻密な描画がとても気になって、彼は飴を売る商人にその仕入れ先を尋ね、その作者を探して歩く。
やがて、静かな筆致で無心にありを描き続ける少年との出会いが描かれる。
これは戦争が市井の人びとにもたらした歴史の実相に迫る痛切極まりない物語だ。坂本の主人公に寄せる共感の深さがそのまま読者に伝わって来る。
続いて二番目に寄せられたのは「ヒヨコと少年画家」である。(1948(昭和23)年第1巻10月号)題名からもわかるように、物語は前作の続編として書かれている。語り手の知らぬ間に、戦争で身寄りを無くした少年の引き取り先が、どこか別の場所に移っていたのだ。語り手は、あきらめずに少年の所在を調べ、新しい引き取り手の許で今度はヒヨコの絵を描いている少年と再会する…。
(エデイターズミュージアム所蔵)
私の世代は、幼少期に両親から「敗戦直後は人探しのラジオ番組があった」と聞かされた範囲でしか当時の世相については想像ができない。発刊から3冊目と9冊目の『きりん』に掲載された、これら2つの物語に触れて、私は『きりん』という場で隣り合い、向き合っていた子どもとおとなの距離がどれほど近かったかについて、明確に知らされた。
考えてみれば、敗戦後間もなく現れた『きりん』の存在は、現在であればSNSと呼ばれる最先端の情報交換ツールにも匹敵する鮮烈なメディアであったはずだ。今の私たちには、ラジオを通じて音信不通の身内の居場所を探し続けるという生活感覚はまったく想像を超えた世界だ。そんな見通しの立たない不安の内に日常を生きていたのが、『きりん』の読者であり、編集者であった。
私はあらためて、復員から間もなく大阪梅田の尾崎書房に就職した若き浮田さんがいかに新鮮な驚きと興奮の内に『きりん』の編集発行にかかわっていたか、を想像してみる。
尾崎書房の経営難で頓挫しかけた『きりん』は、何とか5カ月の休刊を経て復活した。
ここから予算削減のためサイズがB5半裁版に縮小される。後に浮田さんが『きりん』判と名付けたあのお馴染みの大きさである。復刊された悦びに溢れる数冊が出た頃、編集部のアイデアで当時子どもから寄せられた詩や作文の選評に当っていた詩人と教師による対話会が開かれ、それが読み物として再録されている。
「詩と生活」と題された読み物を読み、ひときわ詩人坂本遼の発言に深い印象を受けた。(1949(昭和24)年 第2巻10月号)
坂本:よい詩は生活から生まれるのです。たとえば山みちを通っているとき、道の上にオモチャが落ちているのを見た。落したこどもが心配して、またさがしに来るにちがいないと思って、道ばたの松の木にくゝりつけてやつたとします。この松の木にくゝりつけてやる行い(おこない)は詩です。赤い人形のオモチャがぷらぷら緑の中で風にゆられている風景もまた詩です。それから子ツバメがクモのすにひっかゝっているのを見て助けてやるこの行いも詩です。やっと助かって、子ツバメが青空高くまい上る風景(ふうけい)も詩です。どんなことでもいゝ、正しい生活をしている人は、その生活そのまゝが詩になるのです。いってみれば、もっとも正しい生活をしている人は、朝おきた時から晩ねるまで、すること、なすこと全部が詩になるわけです。
浮田さんの書かれた文章に、坂本さんの登場する回数はあまり多くない。しかし、回数では測れないその影響の大きさが、この文章からも感じられる。 (つづく)
(2023年8月2日)
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