10月に入って、美術館の建つ小海の高原では、秋の気配が深まりつつあります。
今回は、「浮田要三と『きりん』の世界」展から、唯一無二の作品をご紹介しましょう。
第1展示室奥の壁面を埋めた児童詩誌『きりん』(オリジナル)全166冊
10月初日の午後、あらためて、私は独り166冊の表紙絵たちと向き合いました。
右下端の1948年創刊号から、左上端の、大阪発刊最後の1冊である1962年5月号までを、ゆっくりと左右に往復しながら辿るように眺めていると、その月々の浮田さん自身の生活の息吹すら伝わって来るようです。
殊に、『きりんの絵本』の序文で触れておられる何冊かは、浮田さんの思い出や気持ちが張り付いているようで、ひとしお胸に迫って来ます。(因みにですが、会場で販売中の展覧会を記念して作成したリーフレットの中盤に挟まれた25冊分の表紙絵をまとめた1頁に、浮田さんが言及された号を抽出してありますので、こちらもご鑑賞ください)
私は、今回、児童詩誌『きりん』歴史絵巻の3冊目と4冊目を、しげしげと眺めました。
児童詩誌『きりん』第1巻4・5月合併号と同巻6月号の表紙絵
ここで、前述の記念リーフレット所載の『世界で一番美しい雑誌を』から引用します。
これは、吉原治良さんで、ボクの先生に当る方ですけれども。この作品はですね、やはり井上さんが頼まれて、ボクが走り遣いで行ったんですよ。でも、約束が三回ばかり果たされませんでしてね。先生のご都合で出来なくて。四回目ぐらいに、この『縄跳びをする少女』が出て来たんです。けれども、僕がこれをいただいた時には、まだ濡れていたんです。ボクは確か、朝の十時頃先生のところに行ったんです。つまり、先生は夜中じゅう描いていたということです。もう一生懸命に。これが、その当時の吉原先生の作風だったんです。
まったく、ご自身の他の作品と同列に扱っておられるんです。全然、手抜きは無かった。それをボクが見まして、非常に感激しまして。実は、『具体』に入る動機にもなったぐらいです。「やっぱり、芸術家と言うものはすばらしいものだなぁ!」とそこで実感しました。ボクは。何せセンスが良いですからね、先生は。ボクは絵画的に見ても、グレードの高いものだったと思いますよ。また、脇田さんとは違う持ち味ですからね。本当に感激しました。
油絵具だったもので、持って帰るのに往生したんですよ、ボクは。芦屋から、梅田の尾崎書房まで、もう、本当に丁寧に持って参りましたけれども。キャンバスでした。ただ、残念なことにはね、終戦直後の画材というものは非常に悪質でしてね。もう、二~三年でボロボロになりました。全部破れてしまいました。それは残念でした。
その、濡れた作品を持って帰った時に、ちょうど井上さんが尾崎書房に来ておられて、『これ、出来ました』と言うて、見られたら、『良心的な作家には適いませんなあ!』と言っておられました。正にそうです。とにかく、こんな薄っぺらな、粗末な雑誌の表紙に、それだけの情熱を懸けてくださった、その作家のあり方というもの。正に、『きりん』には、その心情が一貫しているんじゃないですか?『きりん』という雑誌には。ボクはそう思いますねぇ。
右側の4・5月合併号は、『きりん』の題字が朱色で描かれており、白いリボンを付けた少女の黒い影の左下方に、微かに同色の筆跡が伺えます。他方、左側の6月号には、同じく題字が淡い灰色で描かれていますが、同色の筆跡は見られません。
今となっては、この2号続いての吉原作品の採用の秘密については、誰にも尋ねることが出来なくなってしまいました。
いずれにしても、この2冊が、若き青年浮田要三の人生を変えることになったのです。
決定版の作品集『浮田要三の仕事』(りいぶる・とふん刊)巻末の論文の中で、加藤瑞穂さんが、親子ほども年齢差のある二人の邂逅と、その当時の両者の精神的な接近、その後の緩やかな別離について、綿密に書いておられます。
ここに並んで展示された2冊に見入っている内に、私には今や喪われたこの1点こそが、吉原治良と『具体』にとっての出発点となった作品ではなかったか?と思われて来ました。
私自身は吉原の画業に詳しくありませんが、浮田さんの本棚にあった展覧会の図録の内に戦後のごく短期間だけ、彼の作品に具象と抽象の間(あわい)に漂うかのような壊れやすい人間像が表現されているのを、『きりん』につながるイメージを以て感得しています。
この2冊の背景には、まるで小説のような、二人の人間の生涯が交叉した奇跡の出来事を読み取ることが出来るように感じるのです。
あらためて、読者の皆さんにも、会場で直接この展示に触れていただければ幸いです。
(2022年10月2日)
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