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教員の働き方改革と藤井風くん

国会で教師の働き方改革が議論されている。

今朝6/25の朝ドラ「あんぱん」、戦争が終わり、主人公のノブは教師として、子どもを戦争に導く役目に率先した加害者としての教師の自分を悔いる場面だった。現在の経済戦争に、障害のある子どもを送り込むプログラムにぷれジョブを転用され、それを作った自分を悔いたのにノブが重なりつらかった。(purejobは「おとなにものをかんがえさせるジョブ」で大人の欲望を横に置く活動、子ども利用の利権争いは真逆だから、なんとも情けない。)


社会状況がひとたび変われば、こんな重要な仕事になるのが教師であるから、ますます無理、と教師のなり手が減るかもしれないが、退職して9年経ち、私がもらった教育を思いだす。


43年前、岡山大学教育学部中学校理科専攻のころ、岡山大学付属中学校で私は教育実習を受けた。主任は才野晋先生で平松先生担当、キョンキョンデビューのころ。


選ばれし戦士エリート意識のたかい自負の持ち主が多い付属学校。県はもちろん、この国の教育は自分が、というような、夜中の12時過ぎても帰宅しない教師もいた。今よりももっともっとクレイジーな働き方を常としていたが、その中で、才野晋先生の働き方に、21歳のころ触れた。43年経って思い出す教育。(清志郎の「ぼくのせんせい」みたいだ)


17時になれば、才野先生は毎日帰る。

周りに軽くあいさつして、実習生がいても才野先生は帰るのである。

学校以外に先生が大事にするものがあることが伝わった。


教師として私が働いた公立学校は全部で7校で、5校目で才野先生と同僚になった。私がバタバタしてこわれている間にすっかり忘れていたら、先生は里庄町教育長になっていた。


才野先生が教育長のころ、藤井風くんは小学生~中学生だった。手をひらひらさせて集団から遅れて登校する天才くん、giftedは日本の学校ではいじめられてつぶれることが多い。彼はそのまま育った。もちろん家族の理解と一番は音楽だったとおもうけど、


「にんげんをこわさないこと」

城東高校合唱部の先生が話していたが、小中時代、才野先生が教育長で、その教育のもとで過ごせてよかったねと昨日ふと思いました。

パンを買いに行くついでに、役場までドライブして写真を撮りました。教育の命は長い。





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