私は、「浮田要三と『きりん』の世界」展の余白に、星芳郎さんのことをお話しさせていただこうと思います。
先ほど、加藤さんのお話しのはじめの方で、「尾崎書房」という1947年に浮田さんが復員兵として、各務原(かくむがはら)と言うんでしょうかね?兵庫県の飛行場であやうく死に損ねたという終戦直後に、大阪の梅田にある尾崎書房という出版社に入社しました。その時に、そこの社長さんの弟だった方が星芳郎さんです。
星さんという方は、浮田さんの2歳年上でいらっしゃって、民間航空のパイロットをしていらしたそうです。その飛行機に乗っていた方が、お兄さんのやっている小さな出版社に、浮田さんと同期で入社した、ということです。
で、『きりん』が1948年に発刊されますけれども、1年か2年たらずで、尾崎書房が解散してしまいます。そして、一旦その場で、尾崎書房も解散してしまったから『きりん』も廃刊にしようか?という話になった時に、足立巻一さんの文章に拠りますと、星さん浮田さんが『あまりに淋しい。止めたくない』と言われて。それでは、何とか続けようか?と、お二人で『日本童詩研究会』という会をお創りになって、当時浮田さんと星さんがお住まいだったところに、その研究会の看板を掲げたということだったそうです。
ですから、『きりん』が生れて2年後からは、ずっと浮田さんと星さんの、20代の青年二人が、『きりん』をここまで(背後の展示の再最終号を示して)ずーっと月刊で出し続けたんですね。
星さんという方は、浮田要三さんご自身が『具体』の中でも、どちらかと言うとずっと『縁の下の力持ち』で、それほど表に出る方ではなかったと思いますが、星芳郎さんという方は、もっと陰に隠れている方です。私は以前から『星芳郎さんって、どういう方だったんだろうなぁ?』とずっと気になっていたんですが、いくつが材料があります。
第三展示室のガラスケースにも入っておりますけれども、『思想の科学』という雑誌に、足立巻一さんが、当時本当に貧乏生活していた、(「貧乏生活」と綾子夫人の前で言うのは、大変失礼ですけれども)戦後間もないバラック小屋で、『きりん』を活版印刷で刷っていた頃の様子を撮ってくださった写真があります。その写真は、このリーフレットにも転載しておりますけれども。本当に小さな小屋のようなところで、『きりん』は作られていたということです。
綾子夫人にこの春インタビューした時に、星芳郎さんがどんな方だったか?についてもお話を伺いましたが、『ほとんど無口な人で、シュッとした、彫の深い人で、要らんことは絶対言わない人でした。仕事のことについては、いつも話し合っていましたね』というふうにおっしゃられました。
加藤さんが編んでくださった、この黒い『きりんの絵本』は2008年に出版されているかと思うんですが、今回この展覧会準備の段階で小﨑唯さんからいろいろな資料をご提供いただく中で、浮田さんが鉛筆でわら半紙に書いた或る「下書き」が出て来たんです。
これは、『星芳郎さんが他界した。』という書き出しの、たぶんどこにもオープンになっていないテキストなんですが。その最初の3行を読ませていただきます。
2004年2月12日「きりんの絵本」のための草稿を起そうとした時、畏兄の相棒星芳郎さんが他界してしまった。早朝6時8分のことだったと聞いている。詳しくは、後述するが、ボクは、精神の肉片を喰いちぎられた想いである。その肉片のへこみは、もう元に戻らない。それが悲しい。
こういう文章があります。この文章を読みまして、私はあらためて、『きりんの絵本』の一番最初に浮田さんが書いておられる文章を読み直してみました。つまり、「後述するが」と書かれたものの、この文章では後述されていないんです、下書きでは。ということは浮田さんは、『きりんの絵本』に寄せたテキストの中に、想いを潜めて星さんのことを書いておられるはずだ、と思って、もう一度読み直してみました。
これから少し読ませていただくのが、浮田さんが『きりんの絵本』の中で星さんに触れておられる部分です。
1950年、尾崎書房がなくなって以来、星さんと浮田要三の二人はさらに深く『きりん』に携わってゆくことになります。というよりも、二人にはそれ以外のことは何も考える余裕がなかったのかも知れません。けれども、ここで判然としておかねばならないことは、『きりん』を文化運動の術として出版したのではなく、本質的には、ボクたち流のコマーシャルベースに基づいた、れっきとした商業行為であったことを、申しておかねばなりません。ただ、経済的にはとても苦労をいたしました。むつかしいのは、商業行為であったことには違いありませんが、星さんもボクも、ついお金を儲けるよりも、もっと大切なことは何かと考えだした時で、それを求めていくうちに、後に出てくる非説明的な子どもの表紙絵などが現れ、これが顕著な例となって、一般に分かりにくい雑誌というところに、結果的に『きりん』を追いやってしまったのではないでしょうか。
1948年から1年間はB5判で専門の画家の方に表紙絵を依頼しておりましたが、それらの作品も気持ちのこもらないイラストの作品ではなく、それぞれの画家の個性に基づいた作品が、とりあげられておりました。この辺りの作品を表紙絵にするだけでも、在来の子どもの雑誌とは、その持ち味が異なるようにも感じられました。
すでに「分かりにくい」という世評もありましたが、星さんもボクも、そんなことには微塵も意をそがれることはありませんでした。有り難かったことは、『きりん』の本質的な在り方において、星さんが心底、ボクのもっている前衛思想に同調してくださっていたようで、口にこそ出されませんが、その態度から、「ボクは賛成だよ」という意思をいつも、痛いくらい感じることができておりました。二人の間には、不必要な説明のコトバなど一切いりませんでした。その清々しさが力となって『きりん』が続いたと、今ふっとそんなことを思っております。
星さんの言動は、いつも単に作品の出来栄えを論ずるのではなく、日常生活の中で最も大切なものは何か、と追求して、そこから得られる個人の価値判断こそが最も大切であると思慮されていたように、そんな風に思われます。星さんの喋りコトバというものはほとんど知りませんが、喋られる以上のものをオーラとして感得できる人でありました。そして繰り返すようにいえることは、星さんの『きりん』への毅然とした姿勢があったことで、ある種の『きりん』の動かし難いエレメントが確立されたと思います。「有り難うございました」と何度いってもいい過ぎにはなりません。
『きりんの絵本』 浮田要三「『きりん』の話」6~7頁
こういう文章に、星さんへの追悼を籠めていらっしゃいます。
星さん自身が残された文章というのは、あまり多くないのですが、実は今回第三展示室に展示した理論社から出版された『きりんの本』という3巻の本があります。1年生と2年生が1冊、3年生と4年生が2冊目、そして5年生と6年生が3冊目という。(展示したのは、そのオリジナルですが、小宮山量平さんの形見分けでいただいたものです)
実は、この3年生と4年生の作品を扱った2冊目のあとがきを、星芳郎さんが担当しておられるのです。ここでは、その前半部分をご紹介させていただきます。今の浮田さんの文章にありましたような、星さんのお人柄がそのまま如実に表れた文章です。
解説 —あとがきとして— 星芳郎
のぐちてるお君の “あそんで” “死んだおかあちゃん” という二つの詩をみてください。
どちらもその時の心持を突き放して、飾らずに投げ出しています。さいびしいとか、かなしいとか、そんな安易なことばを使わずに、かえってわたしたちの心にじかに迫ってくる強いハガネのような心が感じられます。
せんせい かおまる
はな さかく(さんかく)
め どうや(ぞうや)
くち ちゃい(ちっちゃい)
これが、同じ作者の、一年足らず前に書いた詩です。幼い筆つきから、とうてい同じ子どもの詩だと思えません。
のぐち君が、はじめて詩を書くまでは、大へんな学級の厄介者でした。授業中でも、先生の話を聞こうとするどころではありません。つくえの間に寝ころがったり、突然となりの友だちの頭をたたいたり、一人でメンコをはじめたり、とても勉強どころではありませんでした。
それでも受持の岡本博文先生は、どなりつけるようなことはしませんでした。
のぐち君の家では、胸の病気でお母さんは寝たきりだし、一人の兄さんは家に寄りつきません。お父さんも弱いからだをおして、会社へ勤めに出ていたので、御飯のしたくをしてくれる人さえなく、まったく一人ぼっちでした。その上、いつの間にかお母さんの病気がうつって、あたりまえでも、みんなの学習についてゆけないような虚弱な子どもでした。
もともと岡本学級は、貧困家庭の子どもが多かったのですが、その中でも、のぐち君が一ばんめぐまれていませんでした。
四月のある放課後、岡本先生はのぐち君を呼びとめられて、一ばんしたいというメンコ遊びに興じられました。毎日暗くなるまで続けて、一週間目くらいに、やっと自分から家庭のことを話すようになりました。やがて、「おれ先生すきや、ほんまにすきや」と、心を打ち明けるまでになりました。のぐち君の孤独な心にも、先生のやさしさがわかってきました。それが、岡本先生を描いた絵に表れ、最初の詩へのきっかけになったわけです。たどたどしい書きあらわし方の中にも、岡本先生に対する、精いっぱいの愛情が感じられるではありませんか。
こうした先生のひたむきな愛情と、学級全員のはげましで、だんだんと詩を書きつづりました。そのときどきの気持ちを詩に書き表し、作詩によって、さらに心のゆがみも洗われて、自信をとり戻し、それは学習への意欲ともなって、はげしかったいたずらもやまりました。
お母さんの看病や御飯のしたくもできるようになりましたが、そのために友だちと一しょに遊ぶことができません。その時の心の中が、“あそんで”という詩に強く語られています。
やがて、お母さんの病気が重くなって、とうとうなくなられました。その時の詩があります。
かあちゃん
そうしきのくるまがくる
はこの中で
手をあわせてるかあちゃん
目をつむって
白いきものきてるかあちゃん
くるまのなかへはいった
かあちゃん
くるまのなかくらいやろうな
あくる日には、もう学校へ出てきました。そして、教室へ入るなり、
「お父ちゃんがな、『級長とちがう人にも、そうしきに家のまえまできた人にちょうめんやろう思てた、そやけどかんにんしてや』というてたで。ほんでな。おかあちゃんな、死ぬまえのばんな、おれの詩みたわ(学級詩集「竹の子」二十一号に発表の詩)。二十一号の詩みてな、わろうてたわ。そやけどな、おかあちゃん死んだやろ。おれ、その詩な、はさみできってな、死んだおかあちゃんの手の中へ詩の紙を入れたわ。はこの中へおかあちゃんいれたわ。おかあちゃんの手の中に、その詩がきつうにぎったったわ。おとうちゃんな、それみて、泣いたで。兄ちゃんもないたわ」ときれぎれのことばで、先生に報告した後、自分の席に坐りました。その時の、のぐち君の美しいうしろ姿は、今でも心に刻みつけられていると、岡本先生がいっています。
“おかあちゃん”に続いて生れたのが、“死んだおかあちゃん”です。
のぐち君が、6年生になって卒業するころには、明るく、思ったことをはきはきしゃべる子どもになっていました。子どもながらに、強く意志的でした。
岡本学級では、のぐち君だけでなく、全員残らず、詩を書きました。(中略)岡本先生は同じ学級を3年から6年まで受持たれました。それは、詩やつづり方を押し進める条件になったかも知れませんが、子どもの心の動きをたくみにとらえた鋭い眼と、無償の人間作りを地道に積み重ねた結果です。
詩を書くことによって得られた、観察したり、聞いたり、感じたり、考えたりするくせが、やがては批判する力や、生きる力をやしないます。
岡本学級の詩は、総じて内容的に暗いものばかりです。しかし、どの詩を見ても、確かで力強く明るい希望をかき立てられます。
岡本先生は口ぐせのようにこういいます。
「ぼくは、詩の指導などしてはいません。子どもと一しょに生活しているだけです」と。
これが、星芳郎さんの「あとがき」の前半の文章です。とてもあとがきとは思えない文章なんですが。今、お読みした世界が、正に『きりん』で成立していた「子どもとおとなが対等な関係で向き合う文化」ではなかったか、と思います。
星芳郎さんのことを紹介する機会というのは、本当に少ないと思ったので、今日この場で星芳郎さんのご紹介ができたことは、浮田さんの展覧会ではありますが、大変良かったなぁと思います。
一般社団法人ぷれジョブ 理事 宮尾 彰
2022年9月17日「浮田要三と『きりん』の世界」展オープニングセレモニーにて
(2023年7月18日 10回目のご命日を前に)
小海町高原美術館 展覧会「浮田要三と『きりん』の世界」 第一展示室
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