大阪淀屋橋のLADS GALLERYで始まった『浮田要三没10年展』の初日に馳せ参じた。
前日の搬入作業。保管されていた作品が、一点また一点と、白い壁面に据えられてゆく。二時間ほど経つと、展示スペースには、まるで魔法のように浮田要三の精神が充満する。
会期初日、私は玄関から外に出てガラス越しに街路に向けて飾られた作品の前に立った。
搬入日には見過ごしていたのだ。そして、その場からしばらく動けなくなった。
『角・角・角(15年間の作品)』(1970-1985)。
画面背後には浮田要三特有の赤を下塗りした跡が見える。その上に二つの矩形が重ねて描かれ、画面に三層を成している。かすれたアイボリーの輪郭線を挟んだ各層には幾重にも黒や藍や緑青の絵具が塗り重ねられ、深く澄んだ陶器のようなマチエールが醸されている。
私はふと、最上層の矩形の内側に、島崎藤村の長編『夜明け前』の情景を幻視した。
『ああ、ここは青山半蔵の馬(ま)籠(ごめ)だ。ここに、彼が失意の内に生を終えた座敷牢が見える。』
孤独の只中に立ち己の内を凝視し続けた人間の生涯から、等しく静謐な哲理が横溢する。
1970年から1985年に亘る15年間が、浮田要三にとっていかなる時間だったか。
一期一会の邂逅から10年、その生活と仕事に傾倒する私には、タイトルに示された時間の重みが痛切に迫って来る。作家は、己の身体に沸騰する沈黙を、色彩と形体というコトバを以てモノ(物質)へと定着させている。ちょうど詩人が言葉でそれを為したように。
私に、小説の主人公半蔵(藤村の父、島崎正樹)を想起させたのは、画面全体に漲るモノ(物質)にまで突き詰められた思考の痕跡の、危ういまでの純度に外ならない。
私は、今回この作品と対峙して、あらためて人間浮田要三に出会ったように思う。
遺された児童詩誌『きりん』を一冊一冊手繰りながら作家の歩んだ道行を辿る私の旅も、これから沸騰する沈黙を孕むこととなるだろう。
人間とは、悲しみの塊である。 浮田要三
(2023年7月19日)
(C)Junko Yamamoto at LADS gallery, Osaka
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