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浮田要三の本棚


       昨年初夏、没後初めて開かれた浮田さんの本棚(撮影:宮尾)



 ちょうど一年前の昨日、「浮田要三と『きりん』の世界」展(小海町高原美術館)は浮田さんに縁の深い方々のご来館も得て、盛況の内に終了した。

 今年は、没後10年を記念する一年として、7月には大阪LADS GYALLERYで、8月には奈良の喜多ギャラリーで、10月には西船橋のギャラリーK&Oで、各々ユニークな切り口からその画業と生涯に肉薄した個展が開かれて来た。

 この間、浮田さんによるご縁は広がりと深まりを増し続け、一人の芸術家が後世に遺した贈物の巨さをあらためて噛み締めている。

 私個人の歩みの中でも、昨年夏以来の出会いと経験はそこだけ色彩の異なった特別な帯状の時間を成して、世に言う「人生の質」(クオリティ・オブ・ライフ)を変容させた。

 還暦を間近にしての学芸員資格取得への挑戦を含め、長年温めながらも正面から向き合うことのないままに過ごして来たテーマを、生活の軸に据えることとなった。

 このブログでも書いたが、今からちょうど一年前、美術館壁面に現出した『きりん』絵巻を背に、創刊号からの歴史を繙く作業を始めた。その時点では、私はそこに並んだ166枚の表紙絵を表層的になぞることしか出来なかった。

 この4月以来、理解者による支援を得ながら、脇田和の表紙絵による創刊号から始めて、児童詩誌『きりん』を一冊ずつ精読するという至福の作業に携わって来た。

 展覧会では浮田さんの眼が選んだ『きりん』表紙絵の織り成す美に圧倒されたが、劣化の始まった脆弱な冊子を手に取り、細心の注意と共にその頁を繰りながら、今度は頁を開く度に誌面から立ち上がって来る豊穣な世界に圧倒されることとなった。

 私の感慨は、これまでシリーズ「『きりん』を読む」に記して来たが、5回を数える連載と並行して、竹中郁、坂本遼、足立巻一といった若き浮田要三が謦咳に接した人物の生涯と仕事にも関心が及ぶのも自然の流れであった。

 今、資料室にお預かりしている浮田さんの本棚に対座すると、それら一冊一冊の来歴へと思いを致し、後年に深化を続けた画業への深い影響について考えざるを得ない。

 

 これまで、浮田要三を「『具体美術協会』に所属した画家」とだけ表現しても、全体像に触れることにならない、という実感は明確にあった。では他の作家と浮田さんとを峻別する要素は何なのか?と問われても、それを明言することは難しかった。

 もちろん、児童詩誌『きりん』に14年間かかわった編集者であり、晩年に向けて独自の作品世界を追求した画業があり、芦屋市で続けられた『童美展』の審査員を晩年まで務めた経歴もあり、晩年市井に生きる仲間にアトリエUKITAを開いた教育者の顔もあった。

 こうした「浮田要三の遺したもの」については、冒頭で触れたこれまでの展覧会とそれに関連して持たれたいくつかの企画を通して、かなり明らかにされたように思われる。

 そこで、現在私の前にあり、私を強く惹き付けるのは「浮田要三を創ったもの」である。

 たとえば今、1940年代後半から1950年代前半までの『具体』創設に到る10年を美術史的に捉えると、浮田要三の姿は必ずしもその表層には現れて来ないだろう。その当時浮田さんが潜っていた時間は、美術の枠を超えて文学と教育からもたらされた滋養が充ちていたように考えられるのだ。もちろん、多くの画家たちとの出会いは大変重要な意味を持つのだが、その際に「浮田要三がどのような人間として」画家たちと出会ったのか?という、潜在的な視点が求めらる。『きりん』を契機として、若き浮田さんが出会い、交流を深めた人間群像は、実に幅が広く、奥が深い。必ずしも有名な人物とは限らず、田舎の学校現場で熱烈な美術や詩への愛をたぎらせ続けた無名の教師がおり、子ども相手だからと妥協せずに本気で一流の文章を寄稿した美術研究者がいた。間違いなく、浮田さんは『きりん』の仲間によって若き日にその精神を耕された人間であった。

 これが、ここまで『きりん』に向き合い続けての、私自身の立場と言ってよい。

 写真にある『きりん』ゆかりの詩人らの著作は、どの一冊をとっても太く深い水脈を経てこの書棚に納められた物である。そして、それらをここに納めたのが『きりん』を経て現代美術作家となった浮田さんの手であった。あらためて、これはただならぬ本棚である。

 今後、どのような形で私がこの研究に携われるのかは、未だ不明であるが、ライフワークとして向き合い続けることになるだろう。

 終りに、最近読み終えた足立巻一の遺稿『評伝 竹中郁 その青春と詩の出発』(理論社1986年)から、著者の強烈な遺志が籠められた最期の一節を引いておく。


 物事を追って追って追いつめていくと、必ず思わぬ新しい資料が向こうからあらわれてくる。わたしはそのことを『やちまた』以来体得し、確信しているが、こんどもそうだった。あのころのフィルムがそのまま残っているとは、どうして予想することができただろうか?

 フィルムを見終わって、わたしは“恩寵”を感じた。

 『評伝竹中郁』を書き抜く自信をようやく得た。


※あのころのフィルムとは、若き竹中郁の小磯良平とのフランス留学期の記録を示す。



   表紙には、足立の希望で『きりん』(1951年2月号)表紙絵を援用している。


                            (2023年11月14日)   


                                  





 

 

 


 


 

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