講演とかワークショップ的なことで、法人に依頼がくることが時々ある。
歳も重ねたので話も夕日のようになってきた。
そんななかでも、時代背景からか、この図は評判がいい。当事者のかた、保護者のかた、若者支援にかかわるかたから、わかりやすいという感想をいただく。明日も実は使う。
分けられた場所には居たくない。
不登校の子どもが行くところ、
引きこもりの若者が行くところ、
困った子どもの相談場所にはいきたくない。
社会から自ら排除されるみたいで。
わけてもらった方がていねいによくしてくれるから、
という理由は自分が傷つかないための後付け理由のようで。
お話ではそれをリフレクティングしてみる。
ラベルを貼られることや母集団から理由をつけられて
体よく排除されることにセンサーがちゃんと動く。
センサーは壊れていないから
左に誘われ居憑く居場所を与えられるのを拒む。
母集団が排除に排除を繰り返せば縮まって縮まって縮まり、
そのうち母集団も似た価値だけの人だけで小さくなり、
やがてコミュニテイは無くなる。
それを防ぐ拒みの意味かもしれない。
先日のお話の時、
タイトルに興味を持った青年が久しぶりに出てきた。
分離しないにおいにつられた(本人弁)ようだ。
生きていくとき困ることは起きる。
そのたびに、名前を付けられるのはやはり気持ちがいいものではない。
そのたびに、排除されてなお困った人だとランク付けされたくない。
良い支援をしているんだと支援者の中でまたマウントしあうのも見抜いている当事者は自然遠ざかる。
「みんなが居るところで、すみっこをキープしたい」
それで提案したこと。
すみっこキープの練習、
たとえば、
暗闇の映画館。言葉は交わさない。離れて座る。居心地よい場所を毎回探る。
たとえば、
住居よりも少しはなれた図書館。言葉は交わさない。離れて座る。
排除の図の練習ではなく、母集団のすみっこである意識の練習。
20歳過ぎていれば、おすすめのバーなんかも提案する。
たぶんもう、
さんさんと日の光が輝く時代でなく、
少し暗闇でいっしょうをかけて、
自分の安心する距離をひとりひとり探る時代なんだと思う。
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