たじまゆきひこ『ふしぎな ともだち』くもん出版 2014年6月初版 対等につき合うってどういうことだろう。 そもそも対等で良好な関係性のなかではわざわざそんなこと考えない。 たとえば小さな子どもたちが小さなコミュニティのなかで出会ったとき、お互い対等につき合おうなんて、そんなことつゆほども思っていないだろう。
ではなぜ考えないで済むのだろう。
それは考えるより先に、ともに過ごす時間があるからではないか。 言葉や手が届く距離にあって、自然に形成されていく関係。 混ざり合って、交わっていく過程でだんだんその関係が形作られる。
一緒に過ごす間に、私たちは互いに正しい情報を学びながら修正していけるからだ。 一方で、一緒に過ごした時間も少ないとき、対等な面だけを持ち寄ってつき合うこともあるだろう。
大人になってから自分のなかの行動規範に沿って、そうあるべき姿を実践する場合もあるだろう。
でもそういうのとは違い、子どもたちのそれは、心とからだの交歓があって、プリミティブな部分で対等につながっている。
相手の感情の機微に気づくことができ、それが相互理解を助け、何もなくとも分かり合えるというきずなが生まれる。
そこに障害が加わったとき、何か問題はあるのだろうか?
思うに、まったく無いか、限りなく気にならなくなるのではないだろうか。 この絵本に出てくる自閉症の男の子「やっくん」と転校生としてやってくる「おおたゆうすけくん」には障害を超えた友情がある。
読み終えた後、互いを認め合い親しみを持った対等な関係に心から安堵し、魂がふるえた。 そしてこのお話にはやっくんとゆうすけくんの関係だけでなく、「やっくん」と「クラスメート」、「やっくん」と「先生」の関係も描かれている。 とても重要な役回りで、彼らの存在が最も重要なのかもしれないと思うほどだ。
ゆうすけくんは小学生のときに転校生としてやってきて、やっくんとのつき合い方をクラスメートたちから学んだのだ。
こんな下りがある。(本書より引用)
——
みんなは、やっくんが いけない ことを したら、
やさしく おしえている。
大声を だしている ときは、おちつくまで まつ。
あそぶ ときも、べんきょうする ときも いっしょだ。
——
そして、ゆうすけくんは中学生になるとみんなと一緒に動くのだ。
——
中学校の 入学式
やっくんは、やっぱり きんちょうして
大きな 声で さけびだした。
先生が とんできたが、みんなで 先生を とめた。
ぼくたちは、やっくんを むりに とめると
もっと たいへんな ことに なるのを しっていた。
——
そして、このお話のもう一つのクライマックスは6年生のお別れ会だろう。
やっくんをずっと見守ってきたうちだはなこ先生とやっくんのシーンである。
やっくんは、卒業の挨拶の途中、声をつまらせてしまったはなこ先生に駆け寄り
——
「うちだ はなこ先生 はい おしまい。
うちだ はなこ先生 はい おしまい。」
——
と、手を握って声をかけるのだ。
やっくんにとって、はなこ先生がどんなに大切な存在なのかわかり、このときはなこ先生が逞しくなったやっくんに励まされる小さな女の子みたいに見えた。
*****
このお話のモデルとなった「かあくん」こと治井一馬さんと小田陽介さんは、保育園、小学校、中学校を一緒に過ごした。
小田陽介さんが作者のたじまゆきひこさんのところを訪ね、
「ぼくは子どものころ、かあくんが、自閉症だと知らなかった。かあくんは、ちょっと変わっているけど、普通につき合ってきたんだ」(「作者のことば」より)
と言い、たじまゆきひこさんは、やっと絵本の仕事に入ってゆけたそうである。
この言葉の純粋さに、すべてを包み込む優しさに、こんなにも慰められる。
ともに過ごす時間、ともに育つ時間。それがあるだけで困難と思える障害の、分断の問題を超えていけるのだなあ。
私はこんなふうに優しく包まれた地域社会をこれからもずっとずっと希求していきたいと思うのです。
※本書『ふしぎな ともだち』および「絵本のたから箱「ふしぎなともだち」作者のことば」くもん出版から所々引用させていただいています。
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