『ぼくは川のように話す』ジョーダン・ スコット 文 シドニー・スミス 絵 原田 勝 訳 偕成社 2021年7月初版
つい先日手にしたばかりのこの新しい絵本。体で感じ心で読む内容だったので紹介したい。
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朝、目をさますといつも、
ぼくのまわりは ことばの音だらけ
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物語は少年のモノローグで進んでいく。心のなかの言葉は暗く、後ろ向きで、暗澹たる気持ちが重石のように少年にのしかかっている。内向きな思考のなかに、自分の境遇へのやるせなさが見え隠れしていて、ページをめくる私たちはそんな少年を見守ることしかできない。吃音のせいで、現実社会で縮こまっている少年の心は悲鳴のように響き、言葉を飲み込んでいく少年の苦しみに胸が重く痺れてくる。
そして、今日も少年の心はボロボロだ。
上手くできず、どうしても世界と繋がれないことが執拗に少年を傷つけ続けている。
しかし同時に、傷つきながらも少年の独特な感性と内なる言葉の豊かな表現に目を見張ってしまう。彼は心の内に雄弁な景色を持っており、私たちを魅了していくのである。
父親は慰めの言葉が息子を救わないことをわかっていた。
息子を迎えに行くと静かな場所に連れ出して、ただ並んで一緒に川辺を歩いた。
そして言葉の喧騒から離れ、ゆっくりと自然に身を任せても、ふと辛い記憶に苛まれる息子に父は言うのである。
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「ほら、川の水を見てみろ。あれが、おまえの話し方だ」
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川はただ淀みなく流れているように見えてそうではなかった。どうどうと流れる川に耳を凝らし、川面を見つめてみれば、川は泡立ち、波打ち、渦巻いて、砕けて、どもりながら流れているのである。
父親が少年の話し方を川のあり様にたとえたとき、「流れるように話す」ということに囚われていた少年が、少年にしか表すことのできない言葉とイメージに気がつき、吃音のイメージが大きく変わるのである。こんなに美しい受容と肯定の瞬間があるだろうか。 人の社会はときに残酷で冷たい。同じ場所にいても違う時間を生き、別の空間にいるような孤独を感じることもあるだろう。それは障害を持つ人だけに限らず、同じ様に生き辛さを感じている人もいるだろう。こうした孤独を感じている人が、世界と繋がる術を知る話であると思える。
自然は常にそのままで美しく、唯一で在るがままであることを知る。自分もまたその一部で、全てが繋がっていることに気がつけたとき、世界は光り輝くに違いない。 私たちはお互い言葉を交わし伝え合うことをしなければ、相手の心の内を知ることはできないと思っている。でも本当にそうだろうか。少年の父親は言葉を介さずとも少年を理解し、自然は人を癒す力がある。私たちは大なり小なり少年と同じような不器用な存在で、そしてまた彼と同じように魅力を内包した存在なんだと思える。分かり合えないもどかしさや、世界との接点がないままもがいている人にこの物語の力を信じてぜひ読んでみて欲しい。
少年の心に呼応するかのように、光と音が美しく描かれている。
表紙の少年の笑う顔が心に響く。
柔らかな一つの魂と自然が交歓している姿が眩しい。
作者であるジョーダン・ スコット氏の幼少期の実話がモデルとなっているお話。
彼を彼たらしめる素敵なエピソードを絵本にしてくださったことに心から感謝したい。 ※イタリック部分は本書『ぼくは川のように話す』から引用しています。
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