リリース“release” 。通常は解放と訳されるこの言葉を「解き(ほどき)」と訳してみたいと思った。
我らみな 解きを待ち望む 汝に 解きの来たらんことを
日々、職務上向き合う相手には、その対象も起点も歴史も性質もさまざまに異なる生活上の困窮や悩み事がまるで軛(くびき)のように負わされていることが多い。 最近も、その人の存在から言葉に乗せられた訴えを超えた苦痛自体が伝わって来て、それを受け止め切れないという経験をした。 「私たちは、誰しもリリース(解放)されなければいけない存在ですよね?」 自分は、確かそう言ったように覚えている。 では、いったい目の前で苦悩する個人や家族をリリース(解放)するのは誰なのだろうか? 到底、この私ではあり得ない。 誰かが「解放する」のでも、誰かによって「解放される」のでもなく、言わば中動態的に 或る時(カイロス)に、来るべくしてリリースが当人に来(きた)るのではないだろうか。 もし、私たちにお互いに果たし合うべく与えられた役割があるとしたら、それは、来るべきリリース(解き)の一助となる小さなかかわりを担うことでしかないのかも知れない。 その意味では、私たちは誰しも、或る時他者にもたらされる解きに立ち会う者として遣わされる使命を秘かに受けて生きている。
写真は、掛井五郎作『マリア像』(1958)部分。
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