もっと役に立たないことをしよう 嶋本昭三


理念なき実践は脆いのです。


ぷれジョブ🄬は文化。

理念を語るときには

児童詩誌「きりん」に流れる理念とかさなるので

嶋本さんの文章や子どもたちの絵や詩を使わせていただいてきました。


役に立たないことこそ価値ある時代!!

ちいさく、あちこち、ながく、ほそく、、、

今が楽しい、1時間。

「個」を育てる、「個」の意見が大切にされる社会の土づくりです。



「もっと役に立たないことを考えよう」①


役に立つことと、立たないことと、どちらが大切か、それは役に立たないことの方がズー ッと大事なことです。 ちょっと考えると役に立つことをする方がよいように見えます。たしかに役に立っては 他の人が助かるのですからそれが悪かろうはずはありません。そしてたくさんの人達は世 の人の役に立つためにけんめいに考え、はげみ、つとめ、そのおかげで今の私達はどれほど 便利になりたのしくなっているかは、いうまでもないことです。 しかし交通が便利になり、夜はあかあかと電気がともり、病気が少なくなり、寒い夜も暖 かく暮せるようになったからといってもそれはあくまで、人々は何かをする準備がととの っただけでそれでおわりではないのです。お金にしてもお金がたくさんあれば自分の思う ことを存分に出来るので誰でもがお金を欲しがるわけですが、お金を持つことが目的のよ うに考えてしまっては本末転倒(ホンマツテントウ)というものですね。 これはその人があまり役に立たないことについてあまりよく考えていないために本当に 自分が人間として求めていること、つまり役に立つこと以外に本当にすばらしいことは何 かということを、充分に知ろうと努力しなかったからだと思います。外国のことはよく知り ませんが少なくとも日本人はこんな大切な事に関して殆んど未開のままです。 お金もちになってもただ興味本位の娯楽だけが仕事の外にあるとしたらそれこそさびし い限りではありませんか。宗教や芸術の道にいそしむのは勿論よいと思いますがそんなに かまえなくてもすばらしい役に立たないことがどしどし出来るような心のゆとりをもちた いものです。 (嶋本昭三) 『きりん』1962 年 2 月号




「もっと役に立たないことを考えよう」②


数年前、ピカソの生活を撮った映画を見たことがあります。その時に私が非常に感心させら れた事は、ピカソがすばらしい絵をさrさらと描き上げることもさることながら、道端の土 管がすててあるのを見たピカソがそぐにそれを寄せ集めてきて人の形をつくったり、顔の 形におきならべて見たりして楽しんでいた事です。私がおどろいたのはピカソがならべて つくった人の形がすばらしくならべられたという事でなく何の役にもたたないことを、た めらいもなくまるで幼児のように楽しんでいたという事です。それはおそらく次に描くと きの下絵になるものでもなく、彫刻をつくる練習をしていたわけでもないでしょう。そのよ うなことをして子どもが何の気兼ねもなしにするようにのびのびとして楽しんでいるので す。そのとき私はピカソの絵にゆたかさがあふれているのはここにあるのだと思いました。 石ころやレンガや土管ののこりが置かれているのを見たら、誰でも積んでみたり、ならべて みたりしたくなるものです。それが証拠にここに小さい子どもたちは工事現場などで、しか られてもすぐに寄ってきてそのようなことをして楽しんでいます。子どもの心がすばらし いのはこんなところにあるので、純真なる子どもの心は本当に良いものです。・・・・・と いえば、たいていのおとなの人たちは「そうだ、そうだ、それが人間にとって一番素晴らし い宝だ」と共鳴してくれます。ところが実際の社会になるとそんなすばらしいものを皆が寄 ってつぶして行っているように私には見えて仕方ないのです。 曰く「そんなに遊んでばかりいないでもっと役に立つ事をしなさい」 曰く「いつもぐーだらぐーだらしていてちょっとも役に立たない穀つぶし奴!」 ぐーだらといえば小さい時にこんな話を聞きました。音楽家のベートーベンが田園交響楽 を作曲していたころ、その曲をつくるために田んぼや畑のあぜ道を毎日ぶらぶら歩きまわ っていて、お百姓さんに「ぐうたら」あつかいされたことがありました。これなどは、ベー トーベンが後にすばらしいシンフォニーをつくって世間をあっといわせたからよかったよ うなものの、何も役に立つことをしないでそのまま自分が何かすばらしいことを感じただ けで誰にもうったえずにおわってしまう事も多いことでしょうが、そんな時は、その人がす ばらしい何かをつかんだことがほかの人にわからずに終わってしまう事になります。その ような時にちょっと役に立つ事をしないからといってすぐに周囲の人たちがそれをなまけ ものあつかいしているのを聞くと、これでは豊かな心を持つことは、とても出来るものでは ないとかなしくなってしまいます。(つづく)



「もっと役に立たないことを考えよう」③


子どもの絵についての集まりがあって、出かけたとき、おかあさん方は。国語や算数の成 績向上にカンカンになっているひとが大部分でわずかな「美術教育伸張組」のおかあさん方 は、美術の勉強によって、着物の柄を選んだり、着こなしが上手になったり、町にあるアク セサリーなどが上手になったりして、人の心もやさしくなる、といったような考え方であり ました。 しかしボクは子どもが絵をかくということは、みんなが形をとることがうまくなったり、 ネクタイの選び方がうまくなるといった効能書きでなくて、そのような役に立つ事が何も ないことこそ、その目的になるのだとおもいます。 学校の授業の課目が何でもかんでも役に立つことばかりであったとしたら、どんなに味 気ない人間ができ上るか、考えただけでもコワくなる話です。 逆説めくかもわかりませんが、世間的に見て役に立たないことについて考えたり、実行し たりすることこそ、本当に人間のいきている証になる、一番役に立つものではないかと思い ます。 いつか、団伊玖磨さんが新聞にこんな随筆を書いておられました。 オリンピックについて、国民全体が国をあげて協力しなければならない、、、という記事を 気て、とても憤慨したということでした。 団さんは、こんな記事を読むと、みんなが協力していても自分ひとりだけは協力すまいと 感じる、、、というふうにいっておられましたが、その新聞を見て、ボクも協力しないと感じ、 それが愉快に思われました。 オリンピックそのものを毛嫌いしているのではないにしても、まるで軍国時代のように、 一人一人の人間の心を無視するような単純ないい方しかできない人たちには、協力できな いという事です。 べつに、オリンピックに限ったことではありません。今京都でやられているフランス美術 展にしても、毎日押すな押すなの人だそうです。しかし、だからといって、日本人がたいそ う美術に教養が高いとは思えません。新聞などが、どしどし書き立てて、「ルーブル」とい う有難いサブタイトルにつられて来るのでは、「お伊勢参り」と少しも変わりません。 ちょうど今、日本の円空の彫刻展があり、これなどもっと問題になってもよい作品である のに、いっこうに人々が集まらないのは、そのあらわれのようです。 こんなことをいうと、ある人はそんなよいものがあっても、新聞などに、大きく書かれな いと、素人には、すこしもわからない、というのですが、よいものというのは、それぞれの 心の中につながってこそ、あるのですから、世界一のルーブル様でなくても、田舎のおっさ んのところにも十分ありうるわけです。 この間、友人の家を訪ねますと、変なのれんがぶらさがっているので聞くと、田舎の人が 荷物をひくのに車につけるもので、わらじをあむようにしてあるのですが、あまった布をさいて編んでいるものですから、赤や黄や様々な模様が、思いがけない図柄になって、とても 楽しいものでした。荷車を引っ張るひもとルーブルとどちらが美術的であるかという議論 は別として、ここで一番大切なことは、自分でえらべる心というものではないでしょうか。 「独断的」ということばは、道徳的には、いいように考えられないようですが、日本人は とくに、独断的でなさすぎるように思います。本当の意味での独断は、もっと考えたり、も っと実行したりするように考えていってもよいのではないでしょうか。 独断の悪かった側をいろいろ思い浮かべてみても、たいていは本当に自分がすばらしい と思って実行したのではなくて、一部の人にアジられたり、何か損得にむすびついたりして いると思います。そのような考えの浅さというものと、本当に自分にとってすばらしいと感 じたことが、どちらも同じ意味でつかわれお互いにいましめ合ったりしたために、ルーブル、 オリンピック崇拝民族になったのではないでしょうか。 ボクの友人で、左手一つでコンクリート建ての家をつくった人があります。 ある日、たずねますと、細長い古鉄板をのばして窓枠をつくっていました。左手でコツコ ツとたたいているのですが、その古鉄はいっこうにまっすぐになりません。おそらく、一つ の窓枠をつくるのに 3,4 日はかかるでしょう。ボクは、アルバイトのことや友人が暇を見 て手伝いに来ることを考え、それを話しましたが、いっこうにうけつけてくれません。しか し、しばらくそのかなづちで鉄板をたたいている彼を見て、そのたのしそうに、しかも気持 ちを打ち込んでいる様子を見て、さっきのボクの考えがあやまりであったことがすぐにわ かりました。(おわり)


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