『えぞまつ』神沢利子 ぶん 吉田勝彦 え 有澤浩 監修 福音館書店 2011年 新規製版(初出1986年8月かがくのとも発行)
先日、北八ヶ岳にある白駒池のほとりを歩いてきました。池までの歩道には樹齢数百年にもなるコメツガ、シラビソ、トウヒの原生林が広がっていて、地上は緑一面の苔。景色がみずみずしくてとても神秘的な場所です。 穏やかな時間のなか、心ゆくまで苔むした森を散策していたら、トウヒのネームタグに「エゾマツの変種」と書かれていているのが目が止まりました。これまでトウヒはただトウヒだと思っていたので、エゾマツの変種だとは考えもせずに単純に驚いたし、この事実に神沢利子さんの絵本『えぞまつ』を思い出して、不思議な感慨がわいてきました。 いつか北海道にある奥深い森の中へ踏み入って、エゾマツの原生林をこの目で見てみたいと思っていましたが、同時にそこへ入ってはいけないような気がしていたので、ここでその夢が半分叶ったような気持ちになり、北海道に想いを馳せながら苔の森を堪能してきました。
白駒池のトウヒ
エゾマツは高いもので樹高40メートルにもなる大きな木。北海道のシンボルツリー(県木)でもあります。人工林が難しくそのほとんどが原生林と言われているそうです。 この白駒池のトウヒもエゾマツと同じように高いものは樹高40メートルほどになり、後述する「倒木更新」によって生育することが多いと言われています。
倒木
絵本『えぞまつ』は北海道の奥深くにあるエゾマツの森で起きている「倒木更新」のお話です。福音館書店の「かがくのとも」から自然科学絵本として発行されましたが、神沢利子さんの綴る文章が北の大地への畏敬の念を含んでいて、とても詩的な物語になっています。
言葉を追うごとに、見たことのない景色をイメージできる、そんなお話です。
あらすじ。
北海道の深い森。
人が踏み入ることのない厳しい環境のなかで、見上げるほど大きなえぞまつがたくさん立ち並んでいる。
冬の寒さで裂ける幹、芽吹いた種が土に届かず枯れてしまう春、夏は激しい雨土にさらされ、秋は小さな苗の上にたくさんの落ち葉が降り積もる。そして霜は小さなえぞまつの根を切り裂いてしまう。
えぞまつの幼木が大きく育つにはあまりにも厳しい土地。
でもここには悠々とえぞまつの森が存在している。
なぜか。そこには受け継がれるいのちの秘密がありました。
歳をとり弱った大きなえぞまつは、時が来ると倒れ、大地に横たわる。
それから長い時間をかけて苔むした倒木は、無数に落ちてくる種を抱きとめ、これから芽吹く新しいいのちの苗床となる。 そうして種は落ちた場所に立ち、やがて倒れると次世代の肥やしとなっていのちを繋ぐ。 何十年も何百年も繰り返されている森の営み。 倒木更新を繰り返し、森はいまも森と成している。
「うけつがれる いのちの ひみつ」と副題がついているのですが、この秘密が「倒木更新」です。 多くのエゾマツの種が極寒の厳しい環境のなか芽吹かずに朽ちていくのに、森が消失しないのはなぜなのか。森がどのように維持されているのか。そこには自然の摂理があって、淡々と普遍的な植物の世界が広がっているのだとわかってきます。
実はこの『えぞまつ』は私にとって特別思い入れが深い一冊です。
とても私的な体験と重なって、私を救ってくれた絵本だからです。
私がこの絵本と出会ったのは、三鷹に住む児童文学作家、絵本作家の神沢利子さんの展覧会に関わったときのこと。ちょうど闘病中の母の介護をしながら、長女が産まれた頃でした。病床にある人の側で初めての子育てをしていたので、いつも生と死を考えさせられる日々でした。その後、甲斐なく母を亡くして、ほどなくしてもう一人大事な方を亡くしてしまったとき、気がつくと死の間にストンと落ちていました。自分の情緒がうまく働いていなかったのをよく覚えています。死の受容の手続きが進められず、あまり自覚はなかったけれど息苦しかった時期だと思います。
そんな日々の中でこの『えぞまつ』と出会って、読み終わると心が氷解するように身内の死を受け入れることができていました。一つの命に囚われるとそのことに悲しみ暮れてしまうけど、大きな命の流れの中では途切れないものなのだと心の底から思えたからです。私の死生観はこのとき間違いなく拡張して、大いに慰められました。
誰かの発した言葉や絵がこんなに力を持っているとは思いもしない体験でした。
私たちもまたエゾマツと同じようにずっといのちを受け継いでいまが在り、生かされている。生まれたいのちはやがて朽ちる。その余りにも疑いようのない事実にやっと気がつけたんですね。
神沢利子さんは「生きること」や「食べること」などをテーマにされた作品を多く書かれています。 普遍的で本質的なことにきちんと向き合えるきっかけをもらったこと、自分を変える出会いは人だけではないと知ったこと、この絵本との邂逅で、絵本の可能性をとても大きく感じるようになったこと、そんなわけで私にとって特別感がすごい一冊なのです。 きっと人生のときどきで必要なものは違うと思いますが、そんな一冊と出会えたことは素直にとても嬉しい出来事でした。 よく小学校などで「尊敬する人はだれですか?」と聞かれませんか。 私なら「えぞまつ」と答えたいくらい尊く、学びを得る相手。 心に滋味たっぷりなエゾマツの教え。過酷な北の大地からのメッセージ。とても響きました。 こちらでご紹介できないのですが、表紙見返しと裏表紙見返しに吉田勝彦さんの素晴らしい鉛筆画の森が描かれています。見返しに持ってくるのはとてももったいない素晴らしい絵です。 神沢利子さんの展覧会のときに原画を見ましたが、鉛筆線画のモノクロの世界から北の森が目の前に広がるような筆致に感動しました。 ぜひ機会があれば、神沢利子さんの優しく強い私たちに語りかけてくれる文章と吉田勝彦さんの絵をじっくりとお楽しみになってください。 そして、エゾマツの原生林を思い浮かべながらでも良いし、苔むした幻想的な森への興味でもいいですが、白駒池もおすすめですよ。お近くの方はぜひどうぞ。
白駒池の遊歩道
白駒池
※参考:あらすじは『えぞまつ』から要約しています。
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