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『きりん』を読む・番外編 「様式について」


     浮田要三の代表作『L』とご親族(2023.11.27 小海町高原美術館にて)



 諸々の事情により、連載7回目をお送りする予定が多少の延期を余儀なくされていることをご容赦いただきたい。そこで今回は番外編として、この年を終えるに当たり、これまでの精読作業を通じて感じたことを述べてみたい。



様式について


 「様式」などと書くと、なにやら高尚で日常生活から離れた専門的な話と感じられるかも知れないが、これから書きたいのはもっと身近な内容なのでご安心いただきたい。

 思い返せば、私自身がこの言葉の意味を自己流に理解したのは、小学校高学年時の自分の経験を振り返ってのことだった。私が50年近く住む浅間山麓には縄文時代の遺跡がある。ある時期から、私は高原野菜の畑を考古学者のように歩き回り、地面に姿を現わした土器や石器を発掘することに夢中になった。やがて、図書館で土器や石器の形にも変遷のあることを調べた。土器で言えば、早期には三角錐の器を地面に突き刺すように使っていたものが、前期以降、地面に据えやすく底を平面に造形するようになった。石鏃(矢じり)で言えば、早期には凹型だったものが、晩期には凸型へと弓矢に括りつける利便性からか変形された。生活と深く結びついた道具の形体ひとつとっても、生き物のように変化し続けるのだ。


                        (筆者画)



 この理解を踏まえて、これからぷれジョブ®と『きりん』の様式について考えてみたい。

 最近、西さんがこの活動を考案した契機となった少女ともかちゃんの追悼文集を荷物の中から発見した。それを機に、当時同じチームで仕事をしていたN先生と再会を果たし、当時の重心病棟での教育実践について振り返る対話の時間を持つ機会を得ることができた。

 Nさんは、とても丁寧にまとめられた数冊のアルバムを持参された。そこには、西さんが30年ぶりに見る重度の障害を持った生徒たちと教師たちの姿が克明に記録されていた。

 ある一枚の写真に私の眼が止まった。ともかちゃんとNさんのツーショット写真である。私には、ふたりとも、しっかりカメラ目線でこちらを見ているように感じられた。実際にはともかちゃんにどれだけ視力が具わっていたのかは不明であるが、とにかくNさんの傍らでカメラの方を向いた彼女の身体には、ゆるぎない存在感が充ちている。

 アルバムをめくりながら、当時の様子について二人の話は尽きない。同席して聴いていた私には、早島養護学校で実践されていた特殊教育(現在では「特別支援教育」と呼ばれる)の質の高さと、現場の教員に共有されていたチャレンジ精神とがひしひしと伝わって来た。

 1980年代当時、重度心身障害児への教育実践の先端を担っていたのが福島県の須賀川養護学校と岡山県の早島養護学校であった。私は、須賀川での教育実践については林竹二(哲学者・教育学者)の著作『教育の根底にあるもの』(1984年径書房刊)で知って、衝撃を受けていた。当時の早島には、その須賀川と双璧を成す実践の系譜があったらしい。私は今回、西さんとともかちゃんとの出会いの物語を準備した「かかわりの様式」が当時の早島養護学校に成立していたことを、初めて知った。

 一旦、様式が見え始め、美しい形とそれが担う意味とに魅了されると、やがてはその様式を伝えて来た人間への興味が深まる。これは、学生時代に私がウラジーミル・ウェイドレ(ロシアの美学者)の書物によって、身体に沁み込むまで教えられた人生の糧だ。

 賢明な読者はお気づきかも知れないが、これまで6回にわたって私がこの連載で探求して来たのも、ある意味では「『きりん』の様式」の誕生と変遷についてであった。

 焼け野原になってしまった大阪の街で、詩人の井上靖が「子どもたちのピカピカ光る心を集めて『世界一美しい雑誌』を作りましょうや。きっと出来ますよ!」と呼びかけた時には未だ『きりん』に定まった「様式」は無かった。創刊から2号、3号と号を重ねるうちに、編集者の役割分担が生まれ、定期的な寄稿者が現われ、心強い協力者を得るようになった。

おそらくこのようにして、『きりん』の様式も徐々に創り上げられて行ったのだろう。

 やがて創刊から10カ月の時点で早くも廃刊の危機に見舞われた。そして5カ月の休刊。

1949年6月に、サイズを縮小してからくも復刊を果たした。

 すでに述べたとおり、初期の啓蒙的な誌面から、より読者や寄稿者に近づいた内容へと、『きりん』はその様式を変化させながら、地道に号を重ね続けることになる。

 ここで、その生涯の終りまで深く『きりん』に関わり続けた坂本遼が、理論社の編集者・小宮山量平氏に宛てた書簡から引用させていただく。


 十数年も続けてきた「きりん」式編集を捨てるのは惜しいように思います。(「きりん」の編集もご承知の通り無茶(ムチャ)なところも多いのですが、それが今では一つの型をこしらえて、企画に通じていると思うのです)「きりん」の型を固執するわけではありませんが、もう一度もとへ戻すことは無理でしょうか?

                           昭和38年(?)8月11日付


 これは『きりん』の編集発行が理論社に移管された翌年に書かれたと思われる私信だが、

「無茶(ムチャ)なところも多い」、「今では一つの型をこしらえて、企画に通じている」という実直な表現のうちに、彼の『きりん』に寄せる深い愛情と理解が滲み出ている。

 年の終りに、こうして私は「様式」について思いを巡らす機会を得ることになった。

 私たちには、こうも考えることが出来る。人間の歴史と共に、様式の歴史があったと。

 『きりん』にも、ぷれジョブ®にも、それぞれの様式が芽生え、輪郭を結び、内容と形式との相互作用の働きにより、それらが豊かに育まれてゆく成長の歴史があったはずだ。

 それは、たとえればひとつのいのちが生まれて消えてゆく消息にも似ている。

 ひとつのいのちがこの世から消えることは、ひとつの様式が無くなることだ。そのいのちが生きた時間の長短にかかわらず、どのいのちにも、かけがえのない美しい形が宿される。

                            (2023年12月11日)



謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。  ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)


 


 


 

 


 

 

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