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ボクとモノ  浮田要三の自画像

更新日:2023年9月16日

 「子ども美術教室」こそは、子どもからほとばしる芸術の泉であって、誰も遮ることができない、自由のもとにある、人間でいちばん強い力をもった雰囲気の会合であったと思われます。

 大人とか子どもとか、先生とか生徒とかの区別はなく、その時はすべて平等な人間であったといわねばなりません。恐らく子どもにかかわる集団の在り方として、これ以上すばらしい芸術的現象は、日本にはなかったでしょう。この文章を綴ることで、当時を思い起して、真空のような純粋さに酔わんばかりです。

                 (『きりん』の話 『きりんの絵本』2008年刊所載)


 関東地域では紹介されることの稀だった現代美術作家浮田要三の展覧会が、没後10年を記念する年の終り近く、ここ西船橋の地で開催されることを、心からよろこびたい。

 これまで浮田の画業は主に吉原治良が設立した『具体美術協会』(以下『具体』と略記)の文脈で語られることが多く、昨年小海町高原美術館で「浮田要三と『きりん』の世界」展が開催されるまで、児童詩誌『きりん』との深いかかわりに触れた展覧会はなかった。

 1948年に大阪で発行された『きりん』の編集者として浮田が交流した人物には、詩人の井上靖、竹中郁、坂本遼、足立巻一らの他、吉原治良、嶋本昭三、白髪一雄、村上三郎、山崎つる子、田中敦子、東貞美、須田剋太、秋野不矩らの錚々たる画家が名を連ねる。

 1954年の『具体』設立以前から浮田と吉原の間には親密な交流があり、『きりん』は美術、文学、教育の諸領域を横断した刺激的な協働の場として独自の働きを担っていた。

 「子ども美術教室」では嶋本昭三が『きりん』の子どもたちに絵を教えた。吉原の勧めで『具体』に参加した浮田は、裏方に徹して両者をつなぐ仲介者の役割を果たした。

 やがて、1962年に『きりん』を、1965年に『具体』を、自ら退く。

 その後は1983年までの20年弱を袋工場の経営者として過ごし、本格的に創作を再開したのは壮年期の終りだった。晩年に向かうほどに精神は開放され、作品は単純になった。

 浮田は文章を書く際、常に自らを「ボク」と表記した。この独特の硬質な音感から、彼が一貫して持ち続けたモノ(物質)への強い志向性が感じらる。


具体美術に於いては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。(具体美術宣言)


 本展では、長年の寡黙な思索が物質=モノへと変容を果たした浮田の代表作を展示する。

 加えて、若き日の『きりん』とのかかわりから、フィンランド滞在時の記録を経て、晩年におけるアトリエUKITAでの隠れた営為にも触れ、「自らの心にウソが無い」歩みをもって若き日の師吉原治良の問いに答え続けた88年の生涯を紹介する。


                     2023年9月15日 浮田要三の誕生日に

《自画像》1995 © Estate of Yozo Ukita, Courtesy of LADS Gallery, Osaka.

展覧会の詳細なご案内はこちらから

                                 

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