今、『きりん』を読むということ。
- miyao0107
- 2024年10月16日
- 読了時間: 4分

この度、畏友の赤羽卓美氏のご仲介により、我が青春の街・東京神田神保町にあるカフェ月花舎様で「『きりん』を語る会」を開いていただけることになりました。
ちょうど一か月前、島根県鹿足郡吉賀町白谷で彼が主宰するいわみ茶の家いわみ 茶の家 – TEA EXPERIENCE (iwami-cha.jp)の茶畑整備作業をお手伝いしました。
「焼け跡の『きりん』」発行日でもあった浮田要三生誕100年記念日の9月15日は、快晴の仕事日和で、しばらくパソコンと向き合う日々を送っていた自分には、暮れに向けて予約の入っている庭木の剪定仕事のリハーサルも兼ねた体力作りになりました。
その折に献呈したこの小冊子を読まれ、今回ご自身もかかわりの深いカフェ月花舎で定例開催されている「月花舎ブッククラブ」の1企画に提案していただくことが出来ました。
この一か月、企画の詳細を相談したり当日お話しする内容を考えながら過ごしましたが、その間には実にさまざまな出来事が起こりました。
自然と、「今、『きりん』を読むということ。」の意味を思い巡らすことになりました。
今月11日には、今年のノーベル平和賞が日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)に授与されることが決定し、発表されました。
奇しくもその日、私はいつものようにエディターズミュージアムで『きりん』の精読作業を進める中で、次の一篇を読み、息を呑んだばかりだったのです。

大とうりょうのせんきょ
堺市熊野小学校四年 桜谷勝美
六日のラジオ放送で
「アイゼンハゥワーとスティーヴンソンが大とうりょうにりっこうほした」
といった
アイゼンハゥワ―のえんぜつを聞くと
「げん水ばくの実験は
アメリカのため
今までどうりする」
と言う
スティーヴンソンは
「世界の平和のため
水ばく実験はやめる」
といった
ぼくは、だんぜん
スティーヴンソンが
大とうりょうになるようにと思っていた
夕かんのくるのが、まちどうしい
六時になって、やっと夕かんがきた
新聞の第二面を見た
アイゼンハゥワ―が千二百五十三万票
スティーヴンソンが九百七十二万三千票
アイゼンハゥワ―が、また大とうりょうになった
アメリカ人は
世界の人の事を一つも思っていない
『きりん』1957(昭和32)年2月号掲載
同じ11日、広島県被団協理事長の箕牧智之氏(82)は、受賞を受けての挨拶の中で「ガザの子どもが血をいっぱい出して抱かれている。80年前の日本と同じで、重なる」と述べられました。今回のノーベル平和賞授与の真意に即した、痛切な発言です。
これに対して、13日にイスラエルのコーヘン駐日大使が自身のSNSに「ガザと80年前の日本との比較は、不適切かつ根拠に欠けている」と主張しました。
上に引いた一篇の詩は、現在まで続くアメリカの中東政策の基本軸を提示したと言われるアイゼンハワー・ドクトリン(1957年1月5日)の発表直後に作られています。
この詩を前にして、イスラエル大使は同じ詭弁を再び弄することが出来るでしょうか?
今回、私が「焼け跡の『きりん』」執筆に当たって、最後の最後まで推敲を重ねた箇所を再掲して、「『きりん』を語る会」へのお誘いの言葉に換えさせていただきます。
(引用は「焼け跡の『きりん』」32ページより)
「講和だ 日本の独立だ」
一九五一(昭和二六)年で「焼け跡の『きりん』」と題したこの論考を一旦閉じることとしたい。
同年に輩出された表紙絵の傑作からも、浮田さんが得た数多の出会いと、その深化がうかがわれる。
こう書いて、はたと気づく。この冊子が編まれた時代の実相に目を向けなくてはならないことに。
九月のサンフランシスコ平和条約締結を機に国際法の下で連合国との戦争状態から解放された日本は、朝鮮戦争の特需に乗じて、経済的復興へと急速に舵を切ろうとしていた。
しかし、銀行の広告に躍るスローガンに反して、子どもたちの作品が伝えているのは、日々を生きるのに精一杯な家族や教室の風景に他ならない。
小説『夏の花』で広島の悲惨を描いた原民喜が、中央線の鉄路に身を横たえたのも同年三月だった。
『きりん』は時代の証言を集めた歴史資料でもある。

『きりん』1951年12月号裏表紙広告
(2024年10月16日)
『きりん』を語る会
ご参加を希望される方は、下記の方法でお申し込みください。

ご不明な点などありましたら、下記の宮尾までご連絡くださっても結構です。
miyao.0107@gmail.com 090-5796-7506
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