こども食堂とぷれジョブ
- 西 幸代
- 6月5日
- 読了時間: 13分
更新日:6月6日
明治以降の少し長めの歴史も、直近こども食堂の歴史も同列にして振り返ることもできる。
個人のことは政治的なコト、
個人問題に狭められずに「構造的なコト、政治的なコト」として語るひとが増えるといい。
たくさんの人が以下の記事をシェアし、コメントを書かれていました。下にシェアさせていただきました。

「こども食堂」が全国で1万カ所を超えたという。地域のボランティアなどが運営する、子どもが無料あるいは低額で食事ができる場所だ。
著名な俳優が「こども食堂」を訪ね、子どもたちに促されて一緒に食事を摂るACジャパンの広告は、テレビだけでなく、電車の中の広告などでも目にする。それほど「こども食堂」は社会に定着しつつあるのだ。
そんな中、「こども食堂」の名付け親で、13年前に東京都大田区で、「気まぐれ八百屋だんだん」の店主として「だんだん こども食堂」を始めた近藤博子さん(65歳)は、この春「『こども食堂』の大きな流れからは、一線を引く」とfacebookに投稿した。
近藤さんはこれまで機会をとらえて、子どもたちの窮状を社会に伝えてきた。近藤さんは、2023年に第57回吉川英治文化賞を受賞。2024年9月には、首相就任直前の石破茂氏が、「だんだん こども食堂」を訪れ、レクチャーを受けている。なぜ一線を引くことを決意したのだろうか、近藤さんに話を聞いた。
こども食堂の認知は広がる一方で…
――「こども食堂」から一線を引く決意をされたのは、なぜなのでしょうか。
「こども食堂は子どもの貧困解消に役立つ、良いことだ」というイメージが広がりすぎています。企業も、こども食堂に寄付をすることで、子どもの貧困対策に貢献しているというイメージが生まれています。
でも、月に1度や2度、あるいは週に1度、食事を提供しても、おコメを2キロ、3キロ渡しても、子どもの貧困は何も変わりません。これまでこども食堂を続けるなかで、子どもの状況はますます苦しくなっている現状を目の当たりにしました。
子どもの貧困は、国や自治体が、親の就労問題や、子どもの教育問題、住宅問題などに真剣に取り組まなければ解決しません。
――そもそも「だんだん こども食堂」をなぜ始めようと思ったのでしょうか。
私の本職は歯科衛生士です。結婚後、大田区に住み始めました。「歯と健康と食」に関心があったことと、家庭の都合で正規の勤務からパートに変わったことで、「気まぐれ八百屋だんだん」を始めようと思いました。
気まぐれ八百屋だんだん(写真:近藤さん提供)
買い物に来る人たちと、身の上話やいろいろな話をしているうちに、「気まぐれ八百屋だんだん」は大人や子どもの拠り所のようになり、民間の文化センターみたいになりました。
その一方、地域にお腹をすかしている子どもや本当に困っている人がいることもわかってきました。
2010年には近所の小学校の副校長が店に買い物に来て、ある児童の母親に精神的な不調があり、その子は学校給食以外は1日にバナナを1本しか食べていないという話を聞きました。
先生と、その子とこの店で食事ができたらいいねという話になり、地元の知人たちに声をかけて、「子どもが1人で入っても怪しまれない食堂」というコンセプトで「こども食堂」を始めました。その児童は、施設に行ってしまいましたが。
最初は、あくまでも子どもと一緒に食べられる場所ということで、支援が目的ではありませんでした。状況が変わったのはコロナの時期を通してです。
大変な人のために何かするという雰囲気が急に社会に広がった。国からもそういう活動に一時支援の助成金が出るようになりました。皆がそちらに向かって活動の舵を切ったという感じです。
こども食堂の基盤は脆弱
――こども食堂は急増しました。なぜだと思いますか?
食事を作って一緒に食べる、お弁当にして渡すというのは始めやすいのだと思います。それから、お腹をすかしている子どもがこんなにいると思わなかったということもあると思います。子どもたちのために何かをやりたいと思う人がたくさんいるということでもあるのかもしれません。
ただ、こども食堂の基盤は脆弱です。お金にも人にも困らないところはごくわずかです。こども食堂の助成金もありますが、1万カ所もあると、なかなかの競争率です。
申請書類を気軽に書ける人ばかりではありません。自分の生活も大変で、仕事に行きたいけれど、あの子が来るから場所を維持しなければというところがあります。中には、ACのコマーシャルを変えてほしいという方もいます。あのおかげで来る人が増えてしまった。自分たちのキャパを超えているというのです。
それなのに、寄付や助成金が集まって、「こども食堂」は儲かると思われている場合もあります。広告を見た女性が、息子が離婚したので、中学と高校の孫たちが春休みにここにご飯を食べにきてもいいかと聞きにきました。どこからかお金をもらっているのでしょうと。
運営する中で困るケースも
困難な事例を抱えて困っているところもあります。母子関係が難しいご家庭があって、子どもがいろいろ話してくれるけれど、児相には行きたくないという。何度か児相に行ったが、同じことしか言わないからと。そう言われてお友達の家に泊めてしまえば、お母さんから誘拐したと言われてしまう。
怖い思いをすることもあります。ギャンブル依存の人が、私が1人でいる時にフラッと現れるのです。食べるものをくれと。ちょっと怖い。警察を呼びますよと言わなければならないこともあります。ただ、そう言うと逆恨みされることもありますよね。
――今、こども家庭庁はさらに地域の子どもの居場所づくりを呼びかけています。厚生労働省は、高齢者・障害者・子ども・生活困窮の分野でそれぞれ行われていた相談支援・地域づくりを一体的に実施する重層的支援体制整備事業を民間の力を巻き込んで進めています。
地域力、居場所作りといいますが、そんな生やさしいものではないです。そういうことを行政の方も知ってほしい。あなたたちはお仕事ですが、私たちはボランティアだということを忘れないでほしい。こども食堂は行政の下請けではありません。
ハードなケースに関わってしまったら、いつまで続ければいいのか。ハードなケースだからといって、必ずしも上手に児相や区につなげることができない。大変なご家庭の子どもの支援は、行政や学校と情報共有しないと難しいです。しかし、行政は縦割りです。児童相談所と、区の子ども家庭支援担当課や生活保護担当課との連携がいいとは限らない。
また、地域には町会や商店会など既存の団体があります。自治会長や保護司、民生委員など、肩書きがある方たちもいる。こども食堂は地域の新参者で、なかなか関係を作りにくい。日本の体制って、国民をタダ働きさせるようにできているのではないかと思うこともあります。国民の善意を利用して、これはいいことですから、みんなで頑張ってください。頑張りましょうと。あおってきたんだなと私は思います。
地域に密着した行政が生まれてほしい
――近藤さんは、どのような地域と行政のあり方が理想的だと考えますか。
地域に密着した行政が生まれてほしいです。夏休みに給食がないので「こども食堂」に頼むのではなく、行政が調査をして、大変なご家庭に、おコメを配ったり、お弁当会社と契約をしてお弁当を配ることもできます。
だんだん こども食堂は、お弁当の配布という形だった(写真:近藤さん提供)
大田区には、社会福祉協議会の職員として、地域福祉コーディネーターが置かれています。ただ、人口約75万人に対して15人。まったく足りません。
地域でネットワークを持って活動している人たちに謝礼金を出して、サブコーディネーターとして一緒にケース会議をするなど、きめの細かい対応をすれば、しっかり仕事をしてもらえるのではないでしょうか。大田区では直近で税収が上がっているそうです。だったら、子どもにお金を使ってほしい。
私は最初からこども食堂はなくなればいいと思っていました。いつ辞めてもいいようにしないと。今抱えている家族は行政に返せばいい。別のこども食堂につなげばいい。それよりも、お隣さん同士がもう少し気を遣いあって、地域を作るほうが大事だと思います。多く作りすぎた煮物や頂き物の野菜を届けるとか。少しの間子どもを預かるとか。それが、ボランティアとしての範囲でできる地域力だと思います。
私自身は地域教育連絡協議会の委員になっているので、スクールソーシャルワーカーの方にだんだんにきてくださいと伝えることがあります。副校長先生や、担任の先生とも話しやすい。学校の中だけでは対応が難しいことを外から支援することはします。
ただ、素人的なアセスメントと学校のアセスメント、支援側のアセスメントがなかなかかみ合わないです。多分、当事者も学校と、福祉と、地域とに向ける顔も話す内容も違うんですよ。
子どもたちのお守りになる場所が必要
子どもは時間が経てば成長していく。地域のここなら、お父さんやお母さん、先生とは違う大人がいて、話を聞いてくれる。
子どもたちにそんなお守りになる場所を持たせてあげられればいい。学校に行きにくい日にちょっと顔を出す。それくらいの場所なんです。私もそれが、いつ辞めてもいいと思いながら、続けてきてよかったと思うところかな。
近藤さんは、こども食堂からは一線を引くが、「だんだんの日」と名づけて食堂を開所するなど、きまぐれ八百屋だんだんの活動は続けていく。
以上転載 東洋経済 ルポ杉山春さん

〇西幸代のfb投稿
『戦争という怪物はけっして最初からむきだしの戦争の顔はしていない。それどころか、〈平等〉や〈解放〉や〈生きがい〉(死にがい?)やで、人びとの心をくすぐりつつ、じわじわしのびこんでくる。』
「女たちの<銃後>」加納実紀代著
悲しいかな、まさにあてはまる。
中抜きNPOが溢れ、小銭を撒かれて口を塞がれ、タダ働きさせて浮いたお金は武器を買うのにまわる。善意のウォッシュ、偽善の加担に普通の人が満足気になる。善意の顔をした加害者になっている。
ちょうど、こども食堂は人の心につけ込みやすく酔いやすく利用されやすかった、そして女の参加が圧倒的に多いのだろう。
こども食堂の増え方の異様さが国策だとわかる。
よくよく見れば戦争にみんなで進んでいた時代と似ている。
こども食堂はぷれジョブに少し遅れてうまれた活動である。善意の集め方が似ているから、ぷれジョブから子ども食堂にかわった例も全国に多い。
わたしは2003年にぷれジョブを思いついて始めたが、事態と権力構造に気づいた。2009年に商標で止めなければならないほどの熱狂だった。一気に27都府県にひろがり、有名な人々が駆け寄りNPOを創設され、あったことのない人々が無断で本に書いて広めた。子ども食堂の名づけ親さんと同じく、創始者の気持ちは置き去りだった。
2007年商標を取るよう勧めてくれた「倉敷の長老さん」の真意がわかったのは、さらに時間が経過してからである。2008年1月申請、2009年1月取得した。
すすめば進むほどに社会構造の仕組みにすっぽりと取り込まれた障害児の保護者、とくに障害児の母親の人権は、八木秋子のいう「奴隷の自由」くらいしかない。不自由はないわと言い切る人もいるだろうが、、。
この記事は、もう一人の私、もうひとつの道を選んだ私。名付けの方の悲しみは如何ばかりだろうかと考える。アインシュタインの後悔のことば、今度生まれてきたら科学者ではなくブリキ工になりたい、という言葉が浮かんでくる。
権力というものは戦争中には宮澤賢治の詩も書き換え、国民の食事量を減らすのに利用した。なんでも利用する。利用できるものを権力はいつも探していて、子ども食堂はみつけられてしまったんだと思う。
子ども食堂やぷれジョブのようなちいさな活動の著作者人格権など簡単に踏みつける暴力が戦争の本性だとわかる。
やさしさを餌にする戦争の本性を見抜いて心配して子ども食堂の経過をみていた人が多くいる。加担しないで逃れてほしいと祈りながら見ていたひとびとは暴力が嫌いな人々だろう。
NHK朝ドラ「あんぱん」の脚本家中澤ミホさんから、今まで描かれなかった被害者だけではない女特有の加害者の側面と複雑性、やさしさだけだと戦争に加担するということを私は毎朝受け取っている。あんなに強い意思で戦争にかかわりたくないヤムさん蘭子さんでさえ、船から誰一人降りれない。
だからこの国の戦争は始まらないよう今止めないといけない。間に合うのかわからないが。
>白いかっぽう着の女たち
今週は「愛国婦人会」のタスキをかけたインテリ層の女たちだったが、
来週の予告には「大日本婦人会」のタスキをかけた羽多子さん(ノブの母)が映っていた。
愛国婦人会、国防婦人会、聯合婦人会の3つが一色になっていく時代。
さっきのNHKニュースーンで北村匠海くんが今この時代にこの作品を撮る覚悟を語っていた。「お涙ちょうだいの作品にはしないからな」と語った監督や戦争をこれでもかと描くと話した脚本家中園ミホさん、役者たちの覚悟。あとがない時代を共有した。
>15年戦争下女たちは国防婦人会に解放と平等の夢をみた
>戦争という怪物はけっして最初からむきだしの戦争の顔はしていない。それどころか、〈平等〉や〈解放〉や〈生きがい〉(死にがい?)やで、人びとの心をくすぐりつつ、じわじわしのびこんでくる。
人々が戦争を実感したときは、もう遅いのだ。私が〈銃後史〉とのつきあいのなかで、いちばん感じたのはそのことだった。
「女たちの〈銃後〉」加納実紀代の帯
大義を与えられ利用され胸を張ってしまった女が同じ道をいくのが重なって見える。

〇 仁藤夢乃さんの投稿
行政や政府に自分の想いやアイディアが全く違う形で利用されて悔しいだろうな。「やっている感」の演出に市民の善意を利用する政治や行政を批判して、貧困を生み出す社会構造に切り込む市民の連帯をつくっていかなければならない。
「こども食堂から一線を引く」 《こども食堂》の名付け親が決意した背景
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首相から子どもたちへの「応援」ポエムに物申す↓
「日本の未来を担うみなさんへ」
あなたは決してひとりではありません。
こども食堂でともにテーブルを囲んでくれるおじさん、おばさん。
学校で分からなかった勉強を助けてくれるお兄さん、お姉さん。
あなたが助けを求めて一歩ふみだせば、そばで支え、その手を導いてくれる人が必ずいます。
平成28年11月8日
内閣総理大臣 安倍晋三
〇永田ジンさんの投稿
「子ども食堂から一線を引く」記事がたくさんシェアされていました。そこで語られていたこと、またシェアされた方々のコメント、本当にそうだなぁと思って読んでいます。
同時に、本件は「行政がNPOやボランティアを下請け化した」という、単純な話にしてはいけないと思っています(ちゃんと金払え!は論外)。
地域の中に以前からある中間支援や、金と利権が回ると気づき次々と立ち上げられた業界団体、有識者が、行政に対して「もっともっと子ども食堂をつくりましょう!お金を出してください!我々がネットワークして育ててあげます!民間にお任せください!」と、アプローチしてきたことは忘れてはいけない。
子ども食堂を「なんか社会に良いこと」と位置付けて、(中間手数料はしっかり取りつつ)現場に少額の資金をばら撒いたり、立ち上げセミナーを開いて、地域に広げさせ、本来の国や自治体の役割や責任から目を逸らさせきたのは誰だったのか。
それはまさに「行政とNPOの協働」で推し進められたことではなかったでしょうか。時間軸が長く緩やかにも見えるため気付きにくいけれど、ある種の「ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)」の一形態に見えます。
どうせ顔が見えにくいからと言って行政を批判して終わりにするのでなく、顔の見える(見えてしまう)距離感での自浄作用や緊張関係の必要性も、この機会に振り返りたいところです。


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