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僕の人生は僕のもの 本日15時より  東京大学バリアフリー教育開発研究センター企画


ご案内が当日になりました。

すみません。

前回の北海道旭川市の平田さんのケースも刺激を大いに受けました。

お時間ある方まだ大丈夫ですので

ぜひ、ご参加ください。

もちろん私も参加します。




イベントの案内転載(写真もイベントからお借りしています)

今回お話くださるのは、大阪府大阪市にお住まいの、前田蓮さんとその御母様前田美貴代さんです。美貴代さんによれば、前田蓮さんは1800グラムの未熟児で仮死状態で生まれ、6か月経っても首も座らないので専門の病院を紹介され、そこで脳性まひと診断を受けました。当初、親子でリハビリ施設に通い、美貴代さんは「専門的な指導はなんて素晴らしい!」と思っていらっしゃったそうです。でも、ある時、幼児教室の一日無料体験に参加すると、療育園とやっていることは全く同じなのに蓮さんの様子が全く違うことに気付いたということです。みんなが絵本を見て「ちょうちょ!」などと言う場面で、蓮さんは声を出し一番はしゃいでいたのです。その様子を見て、「蓮の事を何もできない障害児だと差別していたのは自分だった。」と美貴代さんは気付かれました。それ以来、美貴代さんは、分けて特別なことをした方がこの子のためと考えていたのは間違いだと気付き、蓮さんを1人の子供として育てる事を決意をされたそうです。


 それ以来、保育園、小学校、中学校、高等学校、大学と、蓮さんはすべて普通学校普通学級で過ごされます。蓮さんが語る学校の思い出の一端をご紹介しましょう。小学校の修学旅行では先生の付き添いなしで泊まり、恋バナや怖い話で盛り上がったそうです。中学では電動車椅子に友達二人載せて、廊下を暴走したりして遊んだとか。たまに先生に叱られても楽しくてやめなかったと蓮さんは回想されています。いつも友達と一緒だったので、高校入試を受ける時まで自分が障害者だという自覚はなかったと当時を振り返ります。最終的に通った高校はすごく理解があり、運動会の練習を夜の7時まで皆と一緒にやったり、打ち上げにいったり、タイ国でホームステイも体験したそうです。大学では、軽音楽部に入り、バンドを組みボーカルを担当しました。


 卒業した今は社会人として障害者の相談支援活動をされています。夕方家に帰ってくると中学の同級生が遊びに来て、そんなとき、地域の学校に通って良かったと実感されるのだそうです。


 このように書くと順風満帆な人生のように見えるかもしれません。でも、学校との関係では正直にいって大変なことの連続だったと美貴代さんは振り返ります。


 研究会当日は、蓮さんからは「共に学ぶ」体験の意味を振り返っていただきます。美貴代さんからは、学校がどんな意味で蓮さんにとってバリアになったのかを振り返っていただきます。


 これらのお話をうかがった上で、ご参加の皆様と、インクルーシブ教育の意味について改めて考えていきたいと思います。皆様のご参加をお待ちしています。

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