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来年の児童詩誌「きりん」展おいでください 具体の作品と共に



昨年の掲載した文章ですが、

相模原殺人事件5年経過の日を迎えるにあたり

静かに考える時間を持っています。



優生思想・優勝劣敗思想

ひとりのにんげんのなかにいくつもの種があるのでしょうが

ご縁のできた隣り合うかたと

できれば良い絵柄になるよう

よい芽が育つよう

よい灯をつなぐことができるよう

努力したいと思い

自分の振り返りのために再掲します。





ことあるごとに振り返る児童詩誌「きりん」。

「きりん」は『日本の地下水だ』と鶴見俊輔さんは思想の科学に書いた。 最近は特によく「きりん」を振り返り、浮田さんの絵をみる。

一般社団法人ぷれジョブ🄬の3事業のひとつは 「きりん」のようなかつてあった育ちの場の紹介事業。

以下の文章は1962年、 嶋本昭三さんデビューの文章

「もっと役に立たないことを考えよう」①

役に立つことと、立たないことと、どちらが大切か、それは役に立たないことの方がズーッと大事なことです。 ちょっと考えると役に立つことをする方がよいように見えます。たしかに役に立っては他の人が助かるのですからそれが悪かろうはずはありません。そしてたくさんの人達は世の人の役に立つためにけんめいに考え、はげみ、つとめ、そのおかげで今の私達はどれほど便利になりたのしくなっているかは、いうまでもないことです。 しかし交通が便利になり、夜はあかあかと電気がともり、病気が少なくなり、寒い夜も暖かく暮せるようになったからといってもそれはあくまで、人々は何かをする準備がととのっただけでそれでおわりではないのです。お金にしてもお金がたくさんあれば自分の思うことを存分に出来るので誰でもがお金を欲しがるわけですが、お金を持つことが目的のように考えてしまっては本末転倒(ホンマツテントウ)というものですね。 これはその人があまり役に立たないことについてあまりよく考えていないために本当に自分が人間として求めていること、つまり役に立つこと以外に本当にすばらしいことは何かということを、充分に知ろうと努力しなかったからだと思います。外国のことはよく知りませんが少なくとも日本人はこんな大切な事に関して殆んど未開のままです。 お金もちになってもただ興味本位の娯楽だけが仕事の外にあるとしたらそれこそさびしい限りではありませんか。宗教や芸術の道にいそしむのは勿論よいと思いますがそんなにかまえなくてもすばらしい役に立たないことがどしどし出来るような心のゆとりをもちたいものです。                              (嶋本昭三)

『きりん』1962年2月号

「もっと役に立たないことを考えよう」②

数年前、ピカソの生活を撮った映画を見たことがあります。その時に私が非常に感心させられた事は、ピカソがすばらしい絵をさrさらと描き上げることもさることながら、道端の土管がすててあるのを見たピカソがそぐにそれを寄せ集めてきて人の形をつくったり、顔の形におきならべて見たりして楽しんでいた事です。私がおどろいたのはピカソがならべてつくった人の形がすばらしくならべられたという事でなく何の役にもたたないことを、ためらいもなくまるで幼児のように楽しんでいたという事です。それはおそらく次に描くときの下絵になるものでもなく、彫刻をつくる練習をしていたわけでもないでしょう。そのようなことをして子どもが何の気兼ねもなしにするようにのびのびとして楽しんでいるのです。そのとき私はピカソの絵にゆたかさがあふれているのはここにあるのだと思いました。石ころやレンガや土管ののこりが置かれているのを見たら、誰でも積んでみたり、ならべてみたりしたくなるものです。それが証拠にここに小さい子どもたちは工事現場などで、しかられてもすぐに寄ってきてそのようなことをして楽しんでいます。子どもの心がすばらしいのはこんなところにあるので、純真なる子どもの心は本当に良いものです。・・・・・といえば、たいていのおとなの人たちは「そうだ、そうだ、それが人間にとって一番素晴らしい宝だ」と共鳴してくれます。ところが実際の社会になるとそんなすばらしいものを皆が寄ってつぶして行っているように私には見えて仕方ないのです。  曰く「そんなに遊んでばかりいないでもっと役に立つ事をしなさい」  曰く「いつもぐーだらぐーだらしていてちょっとも役に立たない穀つぶし奴!」 ぐーだらといえば小さい時にこんな話を聞きました。音楽家のベートーベンが田園交響楽を作曲していたころ、その曲をつくるために田んぼや畑のあぜ道を毎日ぶらぶら歩きまわっていて、お百姓さんに「ぐうたら」あつかいされたことがありました。これなどは、ベートーベンが後にすばらしいシンフォニーをつくって世間をあっといわせたからよかったようなものの、何も役に立つことをしないでそのまま自分が何かすばらしいことを感じただけで誰にもうったえずにおわってしまう事も多いことでしょうが、そんな時は、その人がすばらしい何かをつかんだことがほかの人にわからずに終わってしまう事になります。そのような時にちょっと役に立つ事をしないからといってすぐに周囲の人たちがそれをなまけものあつかいしているのを聞くと、これでは豊かな心を持つことは、とても出来るものではないとかなしくなってしまいます。(つづく)

「もっと役に立たないことを考えよう」③

子どもの絵についての集まりがあって、出かけたとき、おかあさん方は。国語や算数の成績向上にカンカンになっているひとが大部分でわずかな「美術教育伸張組」のおかあさん方は、美術の勉強によって、着物の柄を選んだり、着こなしが上手になったり、町にあるアクセサリーなどが上手になったりして、人の心もやさしくなる、といったような考え方でありました。 しかしボクは子どもが絵をかくということは、みんなが形をとることがうまくなったり、ネクタイの選び方がうまくなるといった効能書きでなくて、そのような役に立つ事が何もないことこそ、その目的になるのだとおもいます。 学校の授業の課目が何でもかんでも役に立つことばかりであったとしたら、どんなに味気ない人間ができ上るか、考えただけでもコワくなる話です。 逆説めくかもわかりませんが、世間的に見て役に立たないことについて考えたり、実行したりすることこそ、本当に人間のいきている証になる、一番役に立つものではないかと思います。 いつか、団伊玖磨さんが新聞にこんな随筆を書いておられました。 オリンピックについて、国民全体が国をあげて協力しなければならない、、、という記事を気て、とても憤慨したということでした。 団さんは、こんな記事を読むと、みんなが協力していても自分ひとりだけは協力すまいと感じる、、、というふうにいっておられましたが、その新聞を見て、ボクも協力しないと感じ、それが愉快に思われました。 オリンピックそのものを毛嫌いしているのではないにしても、まるで軍国時代のように、一人一人の人間の心を無視するような単純ないい方しかできない人たちには、協力できないという事です。 べつに、オリンピックに限ったことではありません。今京都でやられているフランス美術展にしても、毎日押すな押すなの人だそうです。しかし、だからといって、日本人がたいそう美術に教養が高いとは思えません。新聞などが、どしどし書き立てて、「ルーブル」という有難いサブタイトルにつられて来るのでは、「お伊勢参り」と少しも変わりません。  ちょうど今、日本の円空の彫刻展があり、これなどもっと問題になってもよい作品であるのに、いっこうに人々が集まらないのは、そのあらわれのようです。  こんなことをいうと、ある人はそんなよいものがあっても、新聞などに、大きく書かれないと、素人には、すこしもわからない、というのですが、よいものというのは、それぞれの心の中につながってこそ、あるのですから、世界一のルーブル様でなくても、田舎のおっさんのところにも十分ありうるわけです。  この間、友人の家を訪ねますと、変なのれんがぶらさがっているので聞くと、田舎の人が荷物をひくのに車につけるもので、わらじをあむようにしてあるのですが、あまった布をさいて編んでいるものですから、赤や黄や様々な模様が、思いがけない図柄になって、とても楽しいものでした。荷車を引っ張るひもとルーブルとどちらが美術的であるかという議論は別として、ここで一番大切なことは、自分でえらべる心というものではないでしょうか。  「独断的」ということばは、道徳的には、いいように考えられないようですが、日本人はとくに、独断的でなさすぎるように思います。本当の意味での独断は、もっと考えたり、もっと実行したりするように考えていってもよいのではないでしょうか。  独断の悪かった側をいろいろ思い浮かべてみても、たいていは本当に自分がすばらしいと思って実行したのではなくて、一部の人にアジられたり、何か損得にむすびついたりしていると思います。そのような考えの浅さというものと、本当に自分にとってすばらしいと感じたことが、どちらも同じ意味でつかわれお互いにいましめ合ったりしたために、ルーブル、オリンピック崇拝民族になったのではないでしょうか。  ボクの友人で、左手一つでコンクリート建ての家をつくった人があります。  ある日、たずねますと、細長い古鉄板をのばして窓枠をつくっていました。左手でコツコツとたたいているのですが、その古鉄はいっこうにまっすぐになりません。おそらく、一つの窓枠をつくるのに3,4日はかかるでしょう。ボクは、アルバイトのことや友人が暇を見て手伝いに来ることを考え、それを話しましたが、いっこうにうけつけてくれません。しかし、しばらくそのかなづちで鉄板をたたいている彼を見て、そのたのしそうに、しかも気持ちを打ち込んでいる様子を見て、さっきのボクの考えがあやまりであったことがすぐにわかりました。(おわり)

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