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『きりん』を読む・5

更新日:2024年4月23日



 今回は、1949(昭和24)年1月から五か月間の休刊を経て5月号で復刊を果たして以降の『きりん』3冊を取り上げて紹介する。誌面レイアウトの端々に若き浮田要三の瑞々しい感性が現れ始める。



第2巻第7号:1949(昭和24)年7月号


表紙絵:野田起久子(小学生) 挿画:川西 英

もくじ上には須田剋太の扉絵(別色刷りの「屋上の雨」挿絵)

特選詩数:9 詩数:41 綴方(日記):2



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         図1.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図2.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図3.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図4.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図5.         (エディターズミュージアム所蔵)




解説

図1.2008年にNHKラジオ深夜便で、「この絵のことは、よう覚えとりますわ。この絵

からボクが表紙絵を選び始めました」と懐かしそうに語られた、忘れがたい一枚。

図2.休刊に入る前に発行された同年1月号冒頭の特選詩に添えられた挿絵を、緑色と黒色

を反転させて印刷した浮田さんのレイアウト。須田剋太との親密さがうかがえる。

図3.少女の詩作品と寄せられた選評と挿画との三位一体の世界。誌面に湛えられた品格に

当時の編集者らの熱意と誠意が感じられる。挿画も味わい深く、脳裏を離れない。

図4.坂本遼によるハンセン病の少女の手記の紹介の初回。三回にわたって連載され、後に

   『春を待つ心』として尾崎書房が刊行、大きな反響を呼んだ。ここでも挿画が秀逸。

図5.裏表紙には三和銀行の全面広告。当時の吉原の画風を映すイラストがさりげなく置か

   れている。浮田さんが直接依頼したものだろうか?贅沢極まりない広告である。



~内容の紹介~

 この当時は、まだ「作文」と「綴方」の扱いが定まっておらず、この号の「もくじ」でも

冒頭に二つの作文が紹介されている。離島の少女の作品に添えて、ブラスバンドが船で本土での発表会に参加するとの新聞記事が紹介されている。ここにも『きりん』の読者や寄稿者が関西圏から徐々に全国へと広がり始めていることが見て取れる。

 坂本遼の文章には率直に自らがハンセン病に抱いた怖れについても記されており、誠実な人柄が滲む。隔離された療養所で19歳で亡くなった少女の文章に瞠目した経験は、彼自身にも大きな影響を与えたものと思われる。



【宮尾の読後感】

 表紙と裏表紙を眺めただけでも、心機一転して編集に当った若き浮田さんと星さんの喜びが伝わって来るようだ。

 表紙絵裏の広告の下に「表紙 芦屋市岩園校三年生 野田起久子」と明朝体で明記されているが、これは浮田さんのアイデアと考えられる。自ら学校を巡って子どもによる絵画作品を表紙絵に選ぶ営みは、ここから始まった。『きりん』の復活を象徴する表紙絵である。 

 吉原の作品を広告にデザインするのは、決して当り前のこととは思えないが、それが成立したおおらかな時代の空気を感じさせる。




第2巻第8号:1949(昭和24)年8月号


表紙絵:依岡恒喜 挿画:須田剋太

もくじ上には須田剋太の扉絵(夏の宵を描いた版画)

特選詩数:9 詩数:40 綴方(日記):無し




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         図1.         (エディターズミュージアム所蔵) 


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         図2.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図3.        (エディターズミュージアム所蔵)


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         図4.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図5.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図6.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図7.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図8.         (エディターズミュージアム所蔵)



解説

図1.経歴は不明。「とても熱心に、いいものをつくってやろうと考えていただいた、その

   お気持ちは伝わってまいりました」と浮田さんが『きりんの絵本』で述べている。

図2.誌面への作品の配置、『きりん』の置き方、テキストとのバランスなど、浮田さんの

   「画面構成」におけるオリジナリティがすでに顕著に見られる。

図3.選者の竹中郁をして「寸分(すんぶん)のすきもありません」と言わしめる表現力。

   熟練小説家の短編を読むかのような奥行きを感じさせる。生活と言葉との近さ。

図4.詩の文と選評を挿画の稲穂と同じ緑色のフォントで、四郎少年(作者)の裸体を黒で

   誌面中央に配置。なんとストレートでシュールなページだろうか。

図5.三人の詩人が論じている詩の作者・野崎實男の名前は、頻繁に誌面に登場する。鋭利

   な誌面のレイアウトに浮田さんのセンスが伺われる。

図6.坂本による連載の2回目。ここでは、永井隆の『この子を残して』を引いて松山くに

   の日記を「記録文學」に位置付けている。タイトル下の重ねられた矩形にも注目。

図7.童話と銘打つにはあまりに赤裸々なタイトルだが、当時の世相が良く現われている。

   ここでも、複数の矩形を重ねる実験がなされている。

図8.再刊号から「あとがき」を担当している志賀による初めての寄稿。タイトルは、古書

   の文学書などに散見されるスタイリッシュな朱色の枠組みに嵌められている。



~内容の紹介~

 この号では特選詩の生徒氏名の横にカッコに入って指導担任の名前が初めて記載された。

以降、しばらくこの表記が踏襲される。これは、編集者にとって馴染みの学級担任や国語・美術専科の教員が増えたことを反映しているだろう。また、巻末の選外佳作の欄に百名以上の氏名が記載されている。都道府県別には東京、茨城、静岡、岐阜、三重、和歌山、大阪、京都、兵庫、鳥取、島根、愛媛、高知、福岡。

 寄稿者の広がりを受けての、『復刊して良かった!』という編集部の笑顔が思い浮かぶ。



【宮尾の読後感】

 依岡恒喜という画家の経歴は不明だが、画面左下にイニシャルと共に『1945 大連』と付されたサインとも相俟って、「異国情緒」だけでは済まされない空気が伝わる表紙絵が

忘れがたい。画家には、『どうぶつ』(ゆりかご社1952年)という仕事があるらしい。また『週刊読売』昭和28年8月9日号の表紙も飾ったようだが、同誌には当時山本周五郎や武田泰淳が小説を連載していた。『きりん』には、こうした尽きない奥行きがある。




第2巻第9号:1949(昭和24)年9月号


表紙絵:市田修二(小学生) 挿画:澤野井信夫

もくじ下にはきよかわいさお(小学生)の扉絵※1

特選詩数:13※2 詩数:40 綴方:6

※1 本人の日記が別枠に囲って紹介されている。テキストとドローイングの妙。

※2 この特選詩の数は過去最多である。



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         図1.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図2.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図3.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図4.         (エディターズミュージアム所蔵)


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         図5.         (エディターズミュージアム所蔵)



解説

図1。印象的な表紙絵は7月号と同じく芦屋市の岩園小4年生の作品。指導者の吉田一夫は

吉原治良と共に芦屋市美術協会の結成にもかかわった。図5.で竹中の解説を紹介。

図2.もくじ背景の扉絵も岩園小3年生の作品と日記。日記の文章、奔放なドローイング、

   充実した作品名の並ぶもくじ。後年の浮田さんのタブローにも劣らぬ味わいがある。

図3.雅代さんによる誌上初の「三度続けての特選」。挿画の澤野井信夫は関西圏を中心に

   「あそび」をテーマに美術教育を唱えた画家・デザイナー。本紙との関係も要研究。

図4.カタカナ表記の擬音語と澤野井の挿画との見事な共振。これなども、初期『きりん』

   ならではの誌面構成かと思われる。敗戦から間もない世相も良く映している。

図5.初めての「先生・父兄のページ」。長野市鍋屋田小の山本氏、熊本県松合小の本田氏

はその後寄稿もある教員。最後に山口ワサカさんからの便りが置かれている。



~内容の紹介~

 もくじの冒頭に「九月作品特集號」とあるように、これまでで最多の特選詩13作、綴方6編を誇る充実した内容である。各地での文集紹介の欄も見られ、『きりん』を中心に波状のように詩や綴方への指導が全国へと拡がっている勢いのようなものが感じられる。それは表紙裏の「全日本児童詩集」への作品寄稿を募集した広告にも現れている。

 そうした中で、もくじにゴチック体強調で置かれた「虹【松山くに文集より】坂本遼」の表記には子どもたちによる作品特集に夭折した少女の遺稿を冠した編集者の誠意を感じる。

また、図5.の末尾に、竹中による「盗作」の禁止についての呼びかけが掲載されている。



【宮尾の読後感】

 長野県民としては、この時期から長野市鍋屋田小学校の作品が頻繁に選出されていることを頼もしく感じる。思い返すと、私自身が小学校1年生の頃、毎日大学ノートに詩を書いて担任の宮嶋憲一先生に赤いペンで添削してもらっていた。『きりん』を購読する教師が県内にどれくらいおられたのか?今や確認する術も無いが、私自身につながる我が県の教育実践の歴史として大いに興味を惹かれる。



あとがき


 シリーズの5回目をお届けする。イスラエルによるガザ地区への虐殺が泥沼化している。

敗戦直後「子どもたちの心はピカピカ光っているはずだ」との願いがら生まれた『きりん』の足跡を辿りながらも、21世紀の現在子どもたちをめぐる壮絶な環境に思いを馳せずにはおれない。


 昨年「浮田要三と『きりん』の世界」展を開催された小海町高原美術館が、今シーズンの最後を飾る冬期の企画展で、ご遺族から寄贈された作品「L」を中心とした新所蔵品を展示してくださることになった。没後10年を締め括る素敵な企画に心から感謝したい。

「美術館で作品をみる」を考えてみる | 小海町高原美術館 | 小海町高原美術館 (koumi-museum.com)                                     


                            (2023年11月13日)


※次回は11月下旬に届けする予定。子どもたちの作品、作家や画家が寄せる作品ともに、ますますの充実を見せる誌面をご紹介したい。


謝辞:「『きりん』を読む」連載に当り、長野県上田市のエディターズミュージアムによるご配慮に、心から感謝いたします。  ⇒Editor'sMuseum (editorsmuseum.com)





                    

 
 
 

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