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原点の奥に広がる世界~児童詩誌『きりん』とぷれジョブ®~

 2020年最後の日曜日、NHK第1で放映された『中村哲の声が聞こえる』という番組を視ました。昨年冬、アフガニスタンの地で凶弾に倒れ天に召された中村医師の弟子たちの姿を追ったドキュメンタリーです。それぞれまったく別の道を歩んでいながら、一人ひとりの仕事と生活の内に中村哲という人間から彼らが受け取った思想が具体化されていました。

 番組を視ていて思い出したのが『きりん』のことでした。前回のブログで皆さんにご紹介することをお約束していた児童詩誌です。

 写真は、1965年に理論社から発行された灰谷健次郎のデビュー作『せんせいけらいになれ』の初版です。私が生まれる1年前、まだ、理論社が創作児童文学という新ジャンルを確立する前の編集者小宮山量平の仕事としても記念碑的な一冊です。

 この本が出された当時、灰谷氏はまだ神戸の小学校の教員の立場にありました。その後、教員を退職して学校現場を離れて流浪の旅に出た彼は、ぎりぎりに追い詰められた生活の中で『兎の眼』の原稿を小宮山氏に渡しましたが、これがきっかけとなって後年の児童文学者としての名誉を得ることになります。

 写真の一冊は、小宮山さんの形見分けの頒布会で譲り受けたもので、小宮山氏がその晩年まで自らの書棚に置いた貴重な文献です。小宮山氏は、最期の病床まで児童詩誌『きりん』の持つ重要性を長女の荒井きぬ枝さんに語っておられたそうです。

 あとがきを読むと、あの大作家の文章とは思えない初々しいリズムで書かれています。

 そこに、二人の人物の名前が出て来ます。星芳郎と浮田要三。この二人こそ、『きりん』という唯一無二の児童詩誌を人知れず支え続けた私たちの大恩人なのです。

 キュウリのようなオッサン(星芳郎)と、一つ百五十円のアンコロモチのようなオッサン(浮田要三)がいなかったら、作家灰谷健次郎が世に出ることもありませんでした。

 「せんせいけらいになれ」。今から55年前に一人の教員が子どもから受け取って、自らのデビュー作のタイトルに掲げたこの一言を、今私たちはこの国の子どもたちをめぐる現状に照らして、どのような気持ちで読むでしょうか?

 後年、灰谷氏自らが繰り返し語り続けたように、彼の文学はすべて「子どもたちから教えられた」世界観から出発しています。言葉を換えれば、それは大人(おとな)が創り出した固定的な価値観を常に打ち破り続ける、子どもたちの内に流れている楽観的な世界観に信頼する、という態度の表明なのです。

 そして、これこそは、戦後間もない1947年に、大阪で井上靖、竹中郁、坂本遼、足立巻一など一群の詩人が尾崎書房という小さな出版社の編集室に集まって熱っぽく語り合った戦後教育への理想の中心にあった大きな柱でした。当時、彼らがこうした理想を『きりん』という小さな月刊誌の編集発行により具体化する際、その実務を全権委任されたのが、先に触れた二人の若者(キュウリとアンコロモチ)だったのです。

 あの東日本大震災の翌年の2012年に、西さんと宮尾はこのアンコロモチ=浮田要三氏に知己を得ました。大阪市郊外の下町に構えられたアトリエUKITAをお訪ねして半日を語り合った奇跡のような時間がよみがえります。その時すでに、浮田さんは体調を崩しておられたはずなのですが、『きりん』とそこに登場する子どもたちのことを語る時には本当に童心そのもののお姿で、淀みなく熱く語られました。

 浮田さんとの出会いが、子どももおとなも一緒に遊ぶ=ぷれジョブ®の原点の奥に広がる世界を照らしてくださいました。私たち「一般社団法人ぷれジョブ」が事業の3番目の柱とする「意思決定できる『個』の育ちを支える文化紹介事業」は、浮田氏が命がけで守られた児童詩誌『きりん』の世界が新しい形で私たちの生活によみがえるまで続けられる営みです。

本の佇まいから、まだ「戦後」だった昭和40年という時代の匂いを感じます

児童詩誌『きりん』連載時のシリーズ名『詩のコクバン』が副題に

「でも、どんなにしかられても、ぼくはこのオッサンたちには、頭があがらないのでした」

手元にある児童詩誌『きりん』 表紙の画はすべて浮田氏の選んだ子どもたちの作品

遺作展となった「アトリエUKITAオープン・ギャラリー」のポスター(2013年8月)

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