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足立巻一さんのこと

 足立巻一さんが、「ひげぼぅぼぅのさんぱつ屋」の童話を携えて、井上さんと一緒に尾崎書房を訪ねて来られたのは、1号が発刊されて間もないころであったと覚えております。細い眼が、メガネの奥にあって、顔中いっぱいの笑顔ではいってこられました。まだ、『きりん』とは浅い付き合いでありましたが、足立さんは『きりん』のことが無上に好きであったのでしょう。優しい独特の笑顔から、「ボクは『きりん』のことは全部知っているよ。」といわんばかりの状態でおられた印象は消えることはありません。きっと、尾崎書房に来られる前から、井上靖流の『きりん』の話を聞き解されて、大いにそれに同調されていたのに違いないと考えております。

                      (『きりんの絵本』「きりんの話」より)


 浮田さんが描写された、初めて出会った頃の足立巻一さんの人となりです。

 足立さんは、児童詩誌『きりん』の歴史を振り返る際に、正しく「生き証人」と呼ぶのに相応しい、長く深いかかわりをこの小さな冊子と保ち続けた方でした。   

 今回の展覧会では、足立さんの書かれた『地方文化の渦(大阪)』-童謡雑誌『きりん』の歩みからーを第3展示室の2番目のガラスケース内に展示しました。この『思想の科学』7号(昭和29年11月)所載の記事には、貧しいバラック小屋で『きりん』を守り続ける若き二人の青年の様子が生き生きと描かれています。


  ケース奥に『思想の科学』と『天秤』、左上隅に『せんせいけらいになれ』を展示

 

 (『きりん』の)発行所は大阪市西区本田町2の44、日本童詩研究会。

 この『日本童詩研究会』という看板はいささか堂々としすぎていて、ハッタリの感じがないでもない。事実、編集兼発行所はその名に比べてあまりにも小さすぎ、はじめての人は絶対にといってもいいほどその所在を探しだせない。振替口座はあっても電話は一本もない。

 大阪の古い遊廓の一つ、松島新地と電車通り一つへだてた東側の、二坪のバラックが発行所だ。それも電球交換所の裏庭に立てられているので、道路にも面しておらず看板をかける場所もない。だから『きりん』をたよってわざわざやってきた先生や子どもはいつもマゴマゴするという。おまけに付近一帯は戦災で焼けたままになっているところが多く、雑草がほこりをかぶって茂り、きわめて殺風景である。

 バラックはトタンぶき、板壁で物置小屋よりも貧相で、内部も板敷、折りたたみ式手製の寝台兼机が空間の半分以上を占め、板壁には活字ケースと手刷印刷機がもたせかけてある。こんなありさまなので『きりん』は発行所の貧弱な点でも全国有数といえるかもしれないが、そこはその上、発行所であると同時に編集兼発行人星芳郎さん夫妻の住宅でもある。窓も一つで通風がわるく、床が低いので湿気がひどい。

                          (上述『思想の科学』7号より) 


 足立さんが、1962年に大阪での発刊が立ち行かなくなった『きりん』の発行先を東京の理論社につなげたのも、更には1973年に自らの同人誌『天秤』の誌面を使って精緻な『きりん』通史を遺されたのも、『きりん』への深い愛着によるものと思われます。

 展覧会も終わりに近づこうとしていますが、つい最近、私は自宅の本棚から思いがけなく貴重な資料を発見しました。それが、足立さんと児童文学者灰谷健次郎との対談です。その中に、足立さんの口から、私が初めて知る事実が語られていました。


 ぼくもなんべんか二人と、「きりん」の売り込みで学校まわりをしたけど、あの二人は子どもが大好きだった。二人のまわりに子どもたちがワーッとよってきていた。それに、「きりん」にかける二人の情熱はたいへんなもので、一度、「きりん」が休刊に追い込まれたことがあった。そのときの二人のさびしがりようはひどいものでした。それで休刊のあいだ、二人は活字を買って文選して手刷りして、「きりん通信」というのをだしていたんです。それからまた再刊ということになった。

                      (『灰谷健次郎の本』24巻 104頁)


 「きりん通信」の存在は、初めて知りましたが、この発言は、発刊2年目に訪れた廃刊の危機を指しています。『きりんの絵本』(2008年刊)の年表には、


 1949年1月、尾崎書房の経営難により、『きりん』は第2巻第1号が出版されて以後、約半年間休刊となる。同年6月に再刊。この際、B5版からB5版半裁に変わる。


 と記されています。

 対談では、足立さんが灰谷学級を訪問した際のことや、何人かの子どもたちの思い出などが語られますが、当時を良く知る者ならではの、『きりん』への思慕が伝わって来ます。

 以下には、対談の終盤、『きりん』の精神をめぐって交わされる二人の対話を引きます。


足立 「きりん」にかかわったぼくにしても竹中さんにしてもだんだんと老いてくる。あとは灰谷さんに「きりん」の精神を受け継いでもらうという気持ちは、ずっと前からぼくとか竹中さんの中にはあった。

 それで聞きたいんだけど、灰谷さんは「きりん」からなにを学んだのかな?

灰谷 たいへんむずかしい質問ですね。比喩的にいえば、非行少年が、人間が生きるということの意味をだんだん教えられていって、人間としてもう一度生きなおす道を選ばせてもらった、というそういう感じですね。「きりん」はぼくの恩人です。かけがえがない。


 巻末には、初出:『オオカミがジャガイモ食べて』(1981年小学館刊)とあります。

もし、この対談が同じ年に行われたと仮定すると、当時足立さんは68歳、灰谷氏は47歳だったことになります。

 今回、展覧会を準備しながら『きりん』の通史を辿って来た私には、灰谷氏が最後の一言を向けることのできた相手は、この世で足立巻一さんのみだったように思われるのです。

                             (2022年11月5日) 


        児童詩誌『きりん』全巻166冊(灰谷健次郎氏旧蔵)

 

 

 



  


   

 

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